「李昭皇」の版間の差分

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|国号 =[[大越]]
|王朝 =[[李朝 (ベトナム)|李朝]]
|在位期間 =[[1224年]]10月 - [[1226年]][[1月1110日]]
|都城 =[[ハノイ|昇龍]](タンロン、現ハノイ)
|諱 =李仏金
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|皇后 =
|陵所 =
|元号 =[[天彰有道]] : 1224年 - 1225年
|注釈 =女皇
}}
'''李 昭皇'''(り しょうこう、{{lang-vi-short|Lý Chiêu Hoàng}}、[[1218年]] - [[1278年]])は、[[李朝 (ベトナム)|李朝]]の第9代[[皇帝]](在位:[[1224年]] - [[1226年]])。[[ベトナム]]で唯一の[[女帝]]といわれる。第8代皇帝[[李恵宗|恵宗]]の次女で、[[陳朝]]の初代皇帝[[陳太宗|太宗]]の皇后。[[諱]]は'''李仏金'''または'''李天馨'''だが、姓と[[諡]]を合わせた李昭皇の名で呼ばれることが多い。
 
== 経歴 ==
1224[[建嘉]]4年(1224、父の恵宗が[[陳守度]]によって皇位を廃されると、その後釜としてわずか7歳で擁立されることとなった。[[天彰有道]]2年([[1225年]])、陳守度の従甥に当たる陳煚と結婚することを余儀なくされる。1226112月11日(1226年1月10日)、皇位を陳煚(陳朝の太宗)に禅譲することを余儀なくされ、李朝は完全に滅亡した。なお、李朝の皇族は、昭皇とその姉の{{仮リンク|順天皇后|label=李氏莹|zh|李氏莹}}を除いて、全て陳守度によって殺害されている。
 
そして李昭皇も[[天応政平]]6年([[1237年]]、太宗との間に実子が生まれないことを理由に離別させられた。太宗はその後、陳守度の策動で、太宗の兄の[[陳柳]]に嫁いでいた昭皇の姉の李氏莹を強引に離婚させ、皇后として迎えている。
 
{{先代次代|[[李朝 (ベトナム)|李朝]]の[[ベトナム帝王一覧|皇帝]]|第9代:1224年 - 1225年|[[李恵宗|恵宗]]|滅亡}}