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戦後の1947年に[[イギリス]]へ法律を学ぶために留学し、1950年に弁護士資格を取得した。[[イングランド]]での滞在期間中、イギリス[[労働党 (イギリス)|労働党]]の一員であった。彼はまた、マレー人学生が自国の政治的な問題を討論するためのマラヤン・フォーラムを組織した。
 
帰国後、アブドゥル・ラザクは自らの政治的才覚を持って[[UMNO]]青年部チーフになっている。1955年、マレーシアで初めて実施された総選挙で議席を獲得すると、32歳の若さで教育相に任命されている。なお、マレーシアでは教育相は出世ルートになっていることが多い(後に[[フセイン・オン]]、[[マハティール・モハマド]]も就任している)。翌年には、マラヤ独立のための外交使節団の一員として再びイギリスに渡っている。
 
1959年総選挙では、アブドゥル・ラザクは地域開発相に就任し、加えて副首相、国防相にも就任した。1969年、[[5月13日事件]]が発生し、民族間での融和と[[トゥンク・アブドゥル・ラーマン]]首相の指導力の欠如が明らかになると翌年に首相に就任した。