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'''本斗町'''(ほんとまち)は、日本の領有下において[[樺太庁]][[本斗郡]]に存在した[[町]]である。
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'''本斗町'''(ほんとまち)は、[[樺太庁]][[本斗郡]]に属した[[町]]である。
 
==概要==
* [[樺太]]では珍し、製紙工場を背景とせず林業や漁業や北海道との連絡する港町を中心として発達した町であった。[[1941年]]時点の人口は11201人である
* [[日本]]人との関わりも大変古く、[[1295年]][[日持]]上人が[[日蓮宗]]の布教活動の為に本斗町阿幸に上陸した。
 
* [[樺太]]では珍しく、製紙工場を背景とせず林業や漁業や北海道との連絡する港町として発達した町であった。
* 交通の要衝であり、北日本汽船㈱による[[北海道]][[稚内]]への稚斗航路や[[海馬島]]への航路が就航していた他、樺太西線(本斗-久春内170.1キロ)と三菱石炭油化工業会社線(本斗-内幌炭山18.6キロ)の始発駅でもあった。また、[[鉄道省]]省営自動車本留線(本斗-留多加駅前71.5キロ)の基地となる本斗自動車区が置かれていた。
 
* [[鉄道省]]省営自動車本留線(本斗-留多加駅前71.5キロ)の基地となる本斗自動車区が置かれていた。
[[日本]]人との関わりも大変古く、[[1295年]][[日持]]上人が[[日蓮宗]]の布教活動の為に町内にあたる阿幸に上陸したと言われている。1946年1月GHQの指令(SCAPIN-677)により日本の施政権が停止され、1949年6月1日、[[国家行政組織法]]の施行により国内法的にも消滅した。
* 北日本汽船㈱による[[北海道]][[稚内]]への稚斗航路や[[海馬島]]への航路が就航していた。
* [[1941年]]時点の人口は11201人であった。
*1946年1月GHQの指令(SCAPIN-677)により日本の施政権が停止され、サンフランシスコ条約に基づく領有権放棄により1952年4月28日行政上消滅した。[[太平洋戦争]]後、[[ソビエト連邦]]及びそれを引き継ぐ[[ロシア連邦]]が[[実効支配]]している。
 
==現状==
* 現在は[[ロシア連邦]]の実行支配下にあり、[[ネベリスク市]]及びネベリスク地区と呼ばれている。当該地域の領有権に関する詳細は[[樺太]]の項目を見よ。[[2004年]]度の人口は24,000人である。市の南東には[[大韓航空機撃墜事件]]の犠牲者を悼む「祈りの碑」がある。
 
* (ソビエト連邦がサンフランシスコ条約に調印していないため)日本政府は形式的に「国際法上は所属未定」との立場を採っている。
* [[北海道]][[稚内市]]と[[姉妹都市]]なっている。
* [[大韓航空機撃墜事件]]の犠牲者を悼む「祈りの碑」が市の南東にある。
 
==関連項目==
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* [http://www.bookcase.com/~claudia/doug-buddha.htm 日蓮宗樺太の旅行 (英語)]
 
[[Category:樺太庁の市町村 (廃止)|ほんとまち]]