「矢島藩」の版間の差分

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1868年、明治新政府に対抗して[[奥羽越列藩同盟]]が結成されると、当初は生駒氏もそれに加わるが、当時の生駒氏の当主・生駒親敬は家中の意志を勤王にまとめ、[[久保田藩]](秋田藩)らとともに官軍につくことを決めた。そのため、[[庄内藩]]の攻撃を受け、親敬は陣屋を自ら焼いて撤退し、官軍と行動を共にした。戊辰戦争で官軍が勝利を収めると、勤王一途の親敬の姿勢は明治新政府より高く評価され、1868年、明治新政府は親敬を15200石の大名に取り立てた。さらに、親敬は讃岐守に任じられ、生駒氏としては約250年ぶりに讃岐守を名乗ることが許された。翌年には、賞典禄1000石が与えられた。こうして、約200年ぶりに矢島藩が復活するが、翌年、[[版籍奉還]]によって矢島藩は矢島県となり、[[1871年]]、[[廃藩置県]]によって[[秋田県]]に統合された。
 
明治17年、当主[[生駒親承]]が男爵に列せられた。
 
== 歴代藩主 ==