「里見義弘」の版間の差分

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このため、里見氏の勢力は一時衰退したが、永禄10年([[1567年]])に義弘は[[三船山合戦]]で北条軍を撃破して勢力を挽回し、[[佐貫城]]を本拠地として安房国から上総国・[[下総国]]にかけて領国体制を築き上げ、里見氏の最盛期を誇った。
 
しかし永禄12年([[1569年]])、上杉謙信と[[北条氏政]]の間で[[越相同盟]]が締結されたことで上杉氏の支援を失い、また下総[[関宿城]]が陥落したことなどにより、後北条氏は攻勢を強めていく。これに対抗する形で[[武田信玄]]と[[甲房同盟]]を締結していた時期もあり、越相同盟が破棄されて武田信玄と北条氏政の[[甲相同盟]]が復活した後も、武田氏との同盟関係は継続した。しかし、[[武田勝頼]]が[[長篠の戦い]]で敗れたことで西の[[織田信長]]との全面対決に専念したために同盟の価値が失われ、一方で上杉氏からの働きかけによって謙信との同盟を復活させたものの、謙信も[[足利義昭]]の要請を受けて織田信長との全面対決に専念することになったために北条氏の勢力伸長を軍事的に牽制できる勢力がなくなってしまった。そしてついに天正5年([[1577年]])、これまでの態度を一転、後北条氏と和を結んだ([[房相一和]])<ref>細田大樹「天正三年の房越同盟の復活」『千葉史学』第70号(2017年)/所収:滝川恒昭 編著『旧国中世重要論文集成 安房国 上総国』戎光祥出版、2022年 ISBN 978-4-86103-378-7 220222022年、P101-105.</ref>。
 
天正6年([[1578年]])、[[久留里城]]にて急死した。だが、遺言に弟(庶長子とも)・[[里見義頼|義頼]]と嫡男・[[里見義重|梅王丸]]への領土分割を命じた事から、死後に里見氏の分裂を招いた。