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[[鎌倉時代]]初期の創建といわれ、[[千葉氏]]が[[上総国]]との境界付近を守る要衝として築き、重臣の[[原氏#下総原氏(千葉家重臣・後北条氏他国衆)|原氏]]に守らせた。[[1509年]]([[永正]]6年)、[[連歌師]]の[[柴屋軒宗長]]は、城主・[[原胤隆]]に招かれ、小弓館で[[猿楽]]や[[連歌]]に興じたことを旅日記『東路のつと』に記している。
 
[[1517年]]([[永正]]14年)10月15日、[[足利義明]]が[[原氏]]([[原胤清]])を追って城を奪い、「'''小弓御所'''」('''[[小弓公方]]''')と名乗り{{Refnest|group="注"|近年になって、永正14年時点で足利義明は下総高柳(現在の埼玉県久喜市高柳)を拠点としており、小弓に移ったのは永正15年7月頃だと判明している。このため、永正14年の原氏の没落が事実とすれば、真里谷氏などが主導した攻撃であった可能性が高い。}}、[[里見氏]]の支援を受けて[[後北条氏]]方の千葉氏・原氏と争った{{Sfn|千野原靖方|1999|p=30、31}}{{Refnest|group="注"|小弓城落城の2日前には三上佐々木氏の[[三上城]]も落城している。}}。しかし、[[1538年]](天文7年)の[[国府台合戦#第一次国府台合戦(天文7年/1538年)|第一次国府台合戦]]で義明が敗死すると、城を奪還した原氏は城の北側に新城を造り、表記を「[[生実城]]」と改名した。
 
ただし、近年の[[発掘調査]]で新城とされた城も[[室町時代]]にはすでに存在していたことが確実となり、実態としては2つの城を併せて「'''小弓城'''」、または「'''生実城'''」と書き表していた可能性も出てきた。そのため、近年では便宜上、旧城とされてきた小弓御所跡の城を「'''南生実城'''」、新城とされてきた生実藩陣屋跡の城を「'''北生実城'''」と呼んで区別されることがある。
 
近年になって、小弓城(南生実城)を小弓御所と比定した『稿本千葉県誌』(1919年)や大野太平『房総里見氏の研究』(1933年)には明確な典拠が記載されていないこと、『東路のつと』には小弓館が[[本行寺 (千葉市)|本行寺]]の近くにあると記されているが古くから存在する道(現在の[[千葉県道66号浜野四街道長沼線]])で直接つながっているのは生実城(北生実城)であることを理由に、原氏の小弓館-小弓公方の小弓御所は生実城の方で、むしろ小弓城(南生実城)の方が戦国期に築かれた新城であったとする新説も出されている<ref>簗瀬裕一「小弓公方足利義明の御座所と生実・浜野の中世城郭」『中世城郭研究』6号(2000年)/所収:滝川恒昭 編著『旧国中世重要論文集成 安房国 上総国』戎光祥出版、2022年 ISBN 978-4-86103-378-7 2022年、P329-358.</ref>。
 
== 構造 ==