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'''恵文王 姓:嬴 氏:趙 名:何'''<br>
[[中国]]の[[戦国時代]]の[[趙]]の国の七代目の君主。[[武霊王]]の子、[[安陽君]]章の弟、[[平原君]]勝の兄。母は、孟桃で武霊王に寵愛を受けていた。武霊王の孟桃に対する寵愛ぶりは甚だしく、前夫人の子、太子章を廃嫡して、公子何を嫡子とした。<br>
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武霊王は、[[中山]]攻略中に、太子何に王位を譲り、自分は主父と称し、一切を何に任せたが、依然として実権は有した。即位した何は死後恵文王と呼ばれる。<br>
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趙は、中山を滅ばした。そんななか、前太子の章は、何が王位に付いているのが不満だった。そこで策をめぐらして恵文王を殺そうとした。主父は、章の不満に気づいていて、章と恵文王を宴席に呼び出して中を取り成そうとした。その際、章は兵を配して恵文王を殺そうとしたが、恵文王は何とか逃れ、その間に王の臣が兵を集め章の軍を破った。章は主父の館に逃げ込み、王の兵は主父の館を包囲した。主父は、章を殺して外に放り投げ、包囲を解くよう命じたが、王軍の将は主父を包囲した事実が禍して王を殺すよう主父が命じることを懸念し、包囲をとかなっかた。主父の家臣は皆逃げ出したが主父はでることを許されず、数か月して餓死した。<br>
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その後、恵文王は無難に政務を取り続けた。主父のように大規模な戦闘を起こさず、国力を保存し続けた。外交面で[[藺相如]]を抜擢し、強国[[秦]]の無理難題を退け、将軍に[[廉頗]]を用い外敵を退けた。弟の平原君の活躍もあり、趙は安定した時代をまかえた。