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'''島津忠綱'''(しまづただつな、[[元久]]2年([[1205年]]) - [[文永]]5年([[1268年]])?)は[[鎌倉時代]]の[[武将]]。[[越前島津氏]]の祖。二郎・又三郎・四郎[[左衛門尉]]、周防守。従五位下
 
== 系譜 ==
父は[[島津忠久]]。母は[[畠山重忠]]女と伝える。[[島津忠時|忠時]]の弟。室は高鼻和左衛門尉有景女(越後局)。子息には[[播磨国]]下揖保荘地頭[[島津忠行|忠行]]、歌人として著名な豊後守[[島津忠景|忠景]]らがいる。
 
== 生涯 ==
二郎・又三郎・四郎[[左衛門尉]]、周防守。従五位下。
[[承久]]3年([[1221年]])、忠久が[[越前国]][[守護職]]に補任されたとき、17歳で[[守護代]]となり、同国生部(現[[福井市]])に居住したと伝える。しかし[[安貞]]2年([[1228年]])には島津氏に代わって[[後藤基綱]]が越前国守護となったため、同時に守護代を退任したものと推測される。[[薩摩国]]揖宿郡(現[[鹿児島県]][[指宿市]])・知覧院(現[[知覧町]])等に[[地頭職]]を有していたが、前者に関しては[[文暦]]2年([[1235年]])、郡司指宿忠秀との間に所領問題を起こし解職された。[[嘉禎]]2年([[1236年]])~[[文応]]2年([[1261年]])、鎌倉にあって歴代将軍に近侍。[[宝治]]2年([[1248年]])、4代将軍[[藤原頼嗣]]に高麗山の[[ヤマガラ]]を献じている。[[寛元]]3年([[1245年]])8月16日の鶴岡馬場の儀にて[[流鏑馬]]の的立を務め、また[[正嘉]]元年([[1257年]])6月1日旬鞠会では見証(審判)に列していることから、文武に優れた人物であったことが窺われる。没年は不詳であるが、『越前島津系図』によると「六十四歳卒」とあり、[[文永]]5年([[1268年]])年頃死去したものと思われる。法名興基院殿道阿紹隆大居士。