「王朝国家」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m 平田説付記
Shimoxx (会話 | 投稿記録)
28行目:
名体制を確立するため、現地支配に当たる国司の権限強化が求められるようになり、10世紀中頃には租税収取・軍事警察などの分野で中央政府から国司への大幅な権限委譲が行われた。こうして国内支配に大きな権限を有する国司、すなわち[[受領]]層が出現することとなった。強力な権限を獲得した国司は、国内に自らの行政権をあまねく及ぼすため、行政機能の強化を目的として、[[国衙]]に政所(公文所)・田所・税所・検非違使所などの機関を設置した。こうした機関の実務官僚として、現地の富豪層・田堵負名層が採用され、[[在庁官人]]として地方行政の実務にあたるようになった。このような状況は10世紀から11世紀にかけて顕著となっていく。
 
国司に付与された権限については、租税収取に関するものに注目が集まりやすいが、軍事警察の面でも大きな権限を獲得している。従前の軍事制度は、個別人身支配を前提とする[[軍団 (古代日本)|軍団制]]及び地方有力者に依存する[[健児|健児制]]を柱としていたが、個別人身支配が崩壊すると両制度とも機能しなくなった。一方、9世紀後期頃から、富豪百姓層らが経済力をつけてきたことを背景として、富豪百姓間相互の紛争もしくは国司と富豪百姓層間の紛争が目立つようになっていた。そこで10世紀前期頃から中央政府は、軍事警察権を国司に委任するという現実的な政策を採用し始めた。こうして成立したのが、国衙を中心とする軍制、すなわち[[国衙軍制]]である。国衙軍制成立の過程で軍事を専門とする貴族([[軍事貴族]])が出現し、特に東国を中心として、自ら国司として現地赴任する者も現れた。軍事貴族には[[桓武平氏]]・[[清和源氏]]・一部の藤原氏などがいたが、彼らの子孫が後の[[武士]]へと成長していった。
 
国司は、中央政府から支配権限の委任を受けた代わりに、当該国から中央への租税納入を負担しなければならなかった。この頃、個別人身支配から土地課税への転換に伴って、従来からあった[[租庸調]]・[[正税]]・[[雑徭]]・交易物などの税目が消え、新たに[[官物]]・[[臨時雑役]]などといった税目が出現していたが、国司はこれら新たな税目(官物・臨時雑役)の中央への納入を義務づけられたのである。これらの租税を中央へ納入する過程で、国司(受領)は租税の一部を私財化し巨富を得ていたとされるが、一方では、租税納入を怠った受領は、受領功過定(ずりょうこうかさだめ)と呼ばれる人事評定によって厳しい審査・処分を受けいたのであり、受領を巨富が得られる官職と理解することに疑義も出されている。