「溝口秀勝」の版間の差分

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[[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]では東軍に与し、越後で[[上杉景勝]](西軍)の煽動した一揆の鎮圧に努めた。その功績により戦後、[[徳川家康]]から所領を安堵されたのである。
 
長井源七郎の娘を妻に迎え、その間に二男五女を儲けた。長男[[溝口宣勝]]は秀勝の家督を継いで第二代新発田藩主となり、次男[[溝口善勝]]も分家して[[沢海藩]]を興した。また長女(次女とも)は[[公家]]の[[中院通村]]([[内大臣]])の室となっている。また五女[[溝口秋香]]は一族の家臣[[溝口盛政]]に嫁いだが、その間に生まれた六女は、[[中山弥次右衛門]]に嫁ぎ、この間に[[赤穂浪士]]四十七士のなかで一番の[[剣客]]として知られる[[堀部安兵衛]]が生まれた。(したがって堀部安兵衛は溝口秀勝の曾孫の一人ということになる。) {{要出典}}
 
秀勝は[[1610年]]に新発田において63歳で歿した。法号は性翁淨見寶光寺(寳光寺殿性翁淨見大居士とも)。自らが開基した新発田城下の淨見寺に葬られた。同寺は後に寺号を寶光寺と改め[[新潟県]][[新発田市]]諏訪町に秀勝の墓所とともに現存している。