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卒業後、[[青山学院大学]]を経て[[社会人野球]]・[[東芝硬式野球部|東芝]]入りし[[1978年]]、投手として[[第49回都市対抗野球大会|都市対抗]]でチーム初優勝に貢献。翌[[1979年]]現役を引退し[[1981年]]からコーチ、助監督を経て[[1988年]]監督に就任すると同年、[[第59回都市対抗野球大会|都市対抗]]で優勝に導き、[[社会人野球日本選手権大会|日本選手権]]もチームを初優勝させ二冠。さらに[[1991年]]にも[[杉山賢人]]、[[丹波健二]]らを擁し[[第62回都市対抗野球大会|都市対抗]]で優勝に導き[[1992年]]の日本選手権も制し東芝黄金時代を築いた。米国の野球技術書を選手に輪読させるなどで守りの野球を標榜、また勝負の流れを読む術に優れたアマ球界随一の知将と評された。
 
こうした手腕を買われ[[1993年]]、[[野球日本代表|野球全日本代表]]コーチに就任し[[1996年]]、 [[アトランタオリンピック野球日本代表|アトランタオリンピック]]での銀メダル獲得に貢献。翌[[1997年]]、全日本代表監督に就任。[[上原浩治]]、[[高橋由伸]]、[[福留孝介]]らを擁した第9回[[IBAFインターコンチネンタルカップ]]では[[キューバ]]を国際大会151連勝で止め世界一に導いた。[[1998年]]、四カ国国際大会、ハーレム大会、[[IBAFワールドカップ|IBAF世界選手権]]、[[バンコク]][[1998年アジア競技大会|アジア大会]]でも指揮を執り[[1999年]]、初のプロ・アマ混成チームの監督に就任。[[2000年]][[シドニーオリンピック野球日本代表|シドニーオリンピック]]本戦でも指揮を執ったが4位に終わり様々な批判を受けた。アマチュアの監督がプロを指揮した事が主な内容だったが、結果的にこの事が[[2004年]]の[[アテネオリンピック野球日本代表]]のオールプロ、[[長嶋茂雄]]の代表監督就任[[アテネオリンピック野球日本代表|長嶋ジャパン]]を誕生させた。
 
現在も[[全日本アマチュア野球連盟]]の役員などで活躍している。