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[[Image:princepotemkin.jpg|200px|thumb|right|グリゴリー・ポチョムキン]]
 
'''グリゴリー・アレクサンドロヴィッチ・ポチョムキン(Grigori'''(Григорий Александрович Потёмкин, Grigori Alexandrovich Potemkin, [[1739年]][[9月13日]] - [[1791年]][[10月5日]])'''は、[[ロシア帝国]]の軍人、政治家。タヴリチェスキー公爵。 帝国秘密参議会参事官、軍法会議副議長、陸軍首席大将にして南部ロシア総督(クリミア総督) 。[[エカチェリーナ2世]]の愛人
 
== 生涯 ==
1739年生まれ。23歳で1762年に[[ピョートル3]]追放廃位した宮廷クーデターに近衛連隊の一員として参加。36歳の時に10歳年上のエカテリーナ2世と結ばれ生涯唯一の真実の夫と言うべき存在となり私生活のみならず、政治家・軍人としても女帝の不可欠のパートナーとなった。
 
1773年に発生した大規模な農民の反乱[[プガチョフの乱]]では鎮圧に活躍。2人は極秘裏に結婚していた、エカチェリーナ46歳の時に2人の間には実娘エリザヴェータ・チョムキナが産まれたなどの説があり、かなり信憑性のある史料からもそういう事実があったであろうことが窺えるが、真相は今も不明である。2人に男女の関係がなくなった後も「妻と夫」であり続け、エカチェリーナの男性の趣味を知り尽くしたポチョムキンが、選りすぐった愛人を女帝の閨房に送り込んでいたという。
 
1779年、[[オスマン・トルコ帝国]]帝国とアイナリ・カヴァク条約を結んだ後、ロシア軍は[[クリミア・ハン国]]から撤退。すると翌年には反乱が勃発してロシアの[[ハーン]]であるシャヒンが追い出された。この為、経済的利害の関係する層をクリミア・ハン国から避難させた後、1782年エカチェリーナ2世はポチョムキンにまたも内乱の鎮圧を命令し、ポチョムキンはクリミアに侵攻し、再びシャヒンをハーンの位につけた。シャヒンは先の反乱の加担者に対する断罪を主張し、このままではいずれまた内乱が勃発すると判断したポチョムキンは、ここに到って[[サンクトペテルブルク|ペテルブルク]]に赴き、エカチェリーナ2世にクリミア汗国の直接統治を進言。彼女も決断を下し、1783年4月、クリミア併合が宣言された。
 
エカテリーナは、ポチョムキンを旧クリミア・ハン国地域の県知事に任命し、黒海北部沿岸およびクリミアの開発を行なわせた。ポチョムキンはクリミアをロシアの膨張政策の突端とすべく[[セヴァストーポリ]]要塞を築き、黒海艦隊を設立する。これに抗議したトルコオスマン帝国との間で1787年、またも[[露土戦争]]が起ってしまった。
 
そのためポチョムキンが海軍元帥と陸軍元帥を兼ね、彼の元に実際の指揮は[[スヴォーロフ]]がとり、1788年、トルコオスマン帝国側のオチャコフ要塞を包囲する。
 
このとき、[[フランス]]トルコオスマンと同盟関係だった[[スウェーデン]]軍が[[フィンランド]]に上陸し、ロシア帝国とスウェーデン王国は戦闘状態に突入した。
 
トルコオスマンとスウェーデン、二方面からの敵を抱えることの不利を考慮したエカチェリーナは、スウェーデンと休戦に入ることになり、[[プロイセン王国|プロイセン]][[イギリス]]の仲介で停戦。
 
こうして一方での戦争を終わらせたのち、トルコ戦線では戦いは有利に進み、スヴォーロフがイズマイルを陥落させ、1791年、ヤッシーの講和において黒海北部沿岸の完全ロシア領化に成功した。この新しくロシア帝国領に編入された地域を、エカチェリーナ2世はノヴォロシア県という行政単位とし、総督にポチョムキンを任命した
 
このクリミアの成長ぶりを視察するため、ポチョムキンの演出でエカテリーナは1787年にクリミア視察旅行に出かけった。そのとき時、ポチョムキンの命令で街道沿いにエカチェリーナ一行を歓迎するための特別に豊かな村が作られ(厚い紙に美しい村の風景を描きれ、女帝の船が通る河岸の堤防に設けておいた。 女帝が通りすぎた後は、大急ぎで絵を下流に移して貧困を隠し、開発が順調に進んでいるように見せかけた)それ以降、みすぼらしかったり、恥ずかしいところを隠すための「見せかけ」を意味する「'''ポチョムキン村'''」という言葉が生じるようになった。 もっともこの時代、ポチョムキンの尽力により、今なお黒海沿岸の主要都市である[[オデッサ]][[コライエフ]][[ヘルソン]]などが建設されたから、彼の統治が見せかけだけだったわけでもない。
 
しかし晩年は軽んじられるようになり失意のうちに女帝に先立って病死した。 享年52歳
 
== 関連項目 ==
*[[クニャージ・ポチョムキン・タウリチェスキー (戦艦)]]
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== 関連作品 ==
*『'''女帝エカテリーナ'''』  [[池田理代子]](作)
:[[アンリ・トロワイヤ]]原作の[[エカテリーナ2世]]の伝記小説の漫画化。
 
== 外部リンク ==
* [http://www.krugosvet.ru/articles/119/1011966/1011966a1.htm Biographie]
 
 
 
[[cs:Grigorij Potěmkin]]