「島津忠綱」の版間の差分

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== 没年 ==
忠綱の没年には諸説ある。福井市弘誓寺の寺伝は[[寛元]]2年([[1244年]])死去とするが、上記「生涯」の項目内容からも明らかなように誤りである。また[[文永]]2年([[1265年]])に成立した『[[続古今和歌集]]』所収の三男忠景の詠歌に親の死を悼む内容のものがあることから、それ以前であるとみる説があるが(丸山晴久『越前島津氏の系譜について』)、『越前島津氏正統家譜』によると「六十四歳卒」とあり、享年に矛盾が生じてくる(文永2年に没したとして最長61歳にしかならない)。そこで、ここでいう親は忠景の母であり、忠綱は[[文永]]5年([[1268年]])年頃まで存命していたとする見解もある(杉本雅人『越前島津氏・その人物と系譜』)。なお、忠綱見解によると正室越後局も[[弘安]]2年([[1279年]])の時点で忠綱の長男忠行の母が生存していたことが確認できるため(『越前島津家文書』)、この見解によると忠行と忠景が異母兄弟であった可能性も推測できるとする。法名興基院殿道阿紹隆大居士。
 
== 墓所 ==
忠綱の居城があったとされる[[福井県]][[丹生郡]][[越前町]]の'''厨城山'''の近くに瓢箪塚と呼ばれる小丘があり、その上に忠綱の墓と伝える[[五輪塔]]が残されている。また、福井市の専光寺に残る「島津石」も、忠綱の墓石とする伝説がある。
また、たつの市揖保上(かつての下揖保庄上村)にも墓石があり、たつの市の如来寺には、位牌が奉られている。
 
[[Category:島津氏|たたつな]]