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'''曹宇'''(そうう、[[197年]]?- 没年不詳 )は、[[魏 (三国)|魏]]の[[皇族]]。
なお、彼の子は曹奐以外には[[三国志 (歴史書)|三国志]]や[[後漢書]]と[[資治通鑑|通鑑]]にもその名は一切記されてない。▼
==略伝・人物==
初めは都郷侯に封じられた。後に[[燕]]王に栄爵された。甥・[[曹叡]]が皇太子時代から、親友の仲にあった。[[239年]]、曹叡は病に倒れると、曹宇を[[大将軍]]にして、[[曹肇]]([[曹休]]の長子)と[[夏侯献]]([[夏侯覇]]の子?)ら魏の[[皇族|宗室]][[閣僚]]らと共に[[養子|猶子]]の[[曹芳]]を補佐させようとしたが、重臣の[[孫資]]や[[劉放]]の讒言もあり、また曹宇自身が明帝の[[遺言|遺詔]]に消極的だったこともあって、彼を初めとする有力皇族は逆に中央から遠避けられてしまった。<br/>▼
===概要===
[[曹操]]の第九子で、生母は環夫人で、[[曹丕]]の異母弟であり、[[曹沖]]の同母弟かつ[[曹據]]の同母兄である。魏の最後の[[天子|皇帝]]・[[曹奐|元帝]](曹奐)の父。妻は[[張魯]]の娘である。
▲なお、彼の子は曹奐以外には『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』や『[[後漢書]]』と『[[資治通鑑|通鑑]]』にも、その名は一切記されてない。
===生涯===
▲初めは、都郷侯に封じられた。後に[[燕]]王に栄爵された。甥・[[曹叡]]が皇太子時代から、親友の仲にあった。[[239年]]、曹叡は病に倒れると、曹宇を[[大将軍]]にして、[[曹肇]]([[曹休]]の長子)と[[夏侯献]]([[夏侯覇]]の子?)ら魏の[[皇族|宗室]][[閣僚]]らと共に[[養子|猶子]]の[[曹芳]]を補佐させようとしたが、重臣の[[孫資]]や[[劉放]]の讒言もあり、また曹宇自身が明帝の[[遺言|遺詔]]に消極的だったこともあって、彼を初めとする有力皇族は逆に中央から遠避けられてしまった。<br/>
その後の曹宇の消息は定かではないが、末子の常道郷公・曹璜(後の曹奐)が即位した時には、まだ在命していたという。
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