「パウルス・ヘクトル・マイアー」の版間の差分

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==生涯==
彼は、古い武器や武術書(Fechtbuch)を蒐集し、たとえば1554年には[[イェルク・ヴィルハルム(Jörg Wilhalm)]]の手稿、1556年には『[[ヴァラーシュタイン写本]]』を購入していた。そして「教えの精髄」を、これまでの教本のすべてを凌駕する新たな大綱にまとめあげることを思いたち、そのために二人の経験豊かな[[剣術]]家を雇った。その二人には、マイアーが知っているすべての技を検証し、完璧なフォームで絵に描けるように洗練することが求められた。画家には[[イェルク・ブロイ(Jörg Breu、]](子)が雇われたが、彼は1543年以降アウクスブルクに滞在していたことが確認されている。この企ては、丸4年と莫大な費用を要し、マイアーはそのために一族の資産と収入のほとんどをつぎ込んだという。
 
マイアーはアウクスブルクの名士であり、蒐集活動のほかにも、他の市民を招いての豪勢な祝賀・歓迎パーティを行っていたが、彼の収入だけではその贅沢な生活を賄うことは不可能だったため、資金の一部を、1541年に監督を任された市の金庫から長年にわたって横領していた。しかし、1579年、会計簿を精査した補佐方との諍いによって横領が発覚し、マイアーは62歳で盗人として絞首刑になった。