「石上麻呂」の版間の差分

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== 天武・持統朝から文武朝前半まで ==
 
物部麻呂が史書に現れるのは、壬申の乱の終局である。物部麻呂は大友皇子([[弘文天皇]])の側にいた。戦争での活躍は伝えられないが、大友皇子が敗走して7月23日に自殺するまで、物部連麻呂は一、二の舎人とともに最後までつき従った。官人としての麻呂の活躍は、早くも天武天皇の下で始まり、晩年に敗者側としては異例の高位にまで上りつめた。最後まで従った忠誠を評価されたためではないかと考える者がいる。また、同族の[[朴井雄君]]が大海人皇子側で勲功を挙げた事で物部一族への処分が軽微に留まったとする意見もある。
 
天武天皇5年([[676年]])10月10日、[[大乙上]]物部連麻呂は[[大使]]となって新羅に赴いた。このとき[[小使]]は[[山背百足]]であった。この頃は新羅と日本の使者の往来が頻繁で、11月3日には入れ違いで[[金清平]]らが新羅から来て、23日には高麗([[高句麗]]復興をめざす亡命政権)の使者を送って新羅の[[金楊原]]が来た。麻呂は翌年2月1日に新羅から戻った。