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'''青山 忠良'''('''あおやま ただなが'''、[[文化 (元号)|文化]]3年[[4月10日 (旧暦)|4月10日]]([[1806年]][[5月27日]]) - [[文久]]2年[[11月15日 (旧暦)|11月15日]]([[1863年]][[1月4日]]))は、[[江戸時代]]の[[丹波国|丹波]][[篠山藩]]青山家5代目藩主。[[老中]]。官位は[[因幡国|因幡]]守、[[下野国|下野]]守。
 
4代目藩主[[青山忠裕|忠裕]]の5男。忠良死後、家督は2男の[[青山忠敏|忠敏]]が相続する。3男は[[尾張藩]][[附家老]]([[犬山藩]]主)の[[成瀬正肥]]。5男は[[黒羽藩]]主の[[大関増徳]](増式)。
 
忠良は、[[大坂城代]]を経て、老中に抜擢されたが、[[1848年]]([[弘化]]4年)、首席[[老中]][[阿部正弘]]が[[徳川斉昭]]を重用するのに反発し、[[水戸藩]]内の旧縁で斉昭に反目する水戸藩士朝比奈某を焚きつけ、斉昭と親しい阿部を退けようと陰謀を企てた。しかし事前に計略が発覚し、青山は逆に詰め腹を斬らされて幕閣を追放された。