「二俣城」の版間の差分

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=== 武田・徳川の攻防戦 ===
 
[[元亀]]3年([[1572年]])10月、武田信玄が上洛を目指し大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、[[武田勝頼]]を大将とする軍が二俣城を攻撃した。徳川方からすれば落城すると本拠・浜松を守る拠点がなくなるため、城代中根正照以下必死に抵抗し、城の堅固さも手伝ってよく守っていた。そこで攻めあぐねた勝頼は、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという(『[[三河物語]]』)。二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が[[浜松城]]から出撃し、[[12月23日 (旧暦)|12月23日]]に[[三方ヶ原の戦い]]で両軍は激突した。結果武田軍大勝し、[[12月28日 (旧暦)|12月28日]]には信玄は[[越前国|越前]]の戦国大名・[[朝倉義景]]に戦勝を報告するととに[[織田信長]]を討つよう出陣催促手紙を送っている(『[[伊納文書]]』)。この中に二俣城が修築中であることも記載されている。しかし上洛そのものはまもなく信玄が発病して上洛はたために中止となり、信玄は帰国中に死亡した。
 
その後二俣城には、信濃先方衆の[[依田信蕃]]が城主として入った。家康は信玄死後から直ちに遠江・三河にある武田の諸城を攻撃した。二俣城にも元亀4年([[1573年]])6月に攻勢をかけたがこのときは撤退している。一方で逆に遠江東部の[[高天神城]]が武田の新当主・勝頼によって落城させられるなど、不利な状況徳川氏ては厳しい状況が続いていた。ところが天正3年([[1575年]])[[5月21日 (旧暦)|5月21日]]、[[長篠の戦い]]で武田軍は織田・徳川連合軍に大敗した。家康は直ちに反攻を開始、6月には二俣城にも軍を出し、付城(前線基地)すぐ向かい二俣城隣の小峰である鳥羽山ほか35箇所に作って攻撃包囲した。同年[[8月14日 (旧暦)|8月14日]]、家康は遠江の東端にある[[諏訪原城]]を落城させたが、二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。しかし同年[[12月24日 (旧暦)|12月24日]]、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も高天神城に撤退した。家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い[[大久保忠世]]を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせた。武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しなかった。
 
=== 家康の長男・信康の切腹 ===