「判断力批判」の版間の差分
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==成立事情==
当初は『趣味判断の批判』として構想されたが、のちにカントは、美的判断である趣味判断と目的論的判断が、根底において同一の原理を持ち、統制的判断力というひとつの能力の展開として説明されうるという構想をうるに至った。これは第一批判『純粋理性批判』から『プロレゴーメナ』を経て第二批判『実践理性批判』へといたるカントの思索の展開、とりわけ理性についての把握と構想力概念の展開を反映している。このため最初は構想になかった目的論的判断力の批判が書かれ、第1版は1790年[[リガ]]で刊行された。のちにカントは、自らの批判哲学体系の解説でもある第1版の序論を全面的に書き直した。以後の版には第2版以降の序論がつねにつけられ、第1版序文は特に『判断力批判第1序論』(たんに『第1序論』とも)と呼ぶ。
==概論==<!--とりあえず-->
純粋な趣味判断は、感覚様式における純粋な形式を把握する。<!--客観的合目的性である-->善とは異なり、<!--形式的合目的性である-->美は概念および関心<!--有用性-->をもたない愉悦の対象である。美の判断においては想像力と悟性とは一致する。これに対し崇高においては想像力と理性との間には矛盾がある。崇高美は、それとの比較において一切が小さいところのものであり、感性の一切の基準を超える純粋理性そのものにおける愉悦である。
天賦の才能である天才は、芸術に対して規則を与える。天才の作品は範型的であり流派をもつ。美的芸術は、言語的・造形的・感覚遊戯的に区分される。最高のものは詩芸術であり、悟性を実現するものとしての想像力の自由な遊戯である。
自然目的の概念は、構成に適した物質を適所に組み入れる。有機物においては何ものも無駄でない。また例えば一本の木は種族あるいは個体として自己を生産する。自然の所産においての目的の原理は、自然の特殊な法則を探究するための発見的原理である。全自然の理念は、原因はつねに目的論的に判断されねばならないという課題を課すものである。
美はいわば道徳的なるものの象徴である。道徳的本質としての人間の現存は、みずからに最高の目的そのものをもつ。神の概念を見出したのは理性の道徳的原理であり、神の現存の内的な道徳的目的規定は、<!--万物の現存における究極の目的としての-->最高原因性を思惟すべきことを指示して自然認識を補足するものである。
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==構成==
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