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'''沼津藩'''(ぬまづはん)は、[[江戸時代]]の[[藩]]の一つであり、[[静岡県]][[沼津市]]の[[沼津城]]を居城とした。藩主は[[水野氏|水野家]]で、[[伺候席|帝鑑間]]詰め[[譜代大名]]として老中など幕閣を輩出した。
 
== 沿革略歴 ==
沼津城に初めて本拠を置いた近世大名は[[小田原藩]]主[[大久保忠隣|大久保相模守忠隣]]の叔父に当たる[[大久保忠佐|治右衛門忠佐]]であるが、。忠佐は[[慶長]]6年([[1601年]])の入封からわずか12年で死後の慶長18年([[1613年]])死去し、嫡子[[大久保忠兼|因幡守忠兼]]も同年に父に先立ってていたため、無嗣断絶で[[改易]]となった。そのため、大きな事跡は残されていない。

その後、沼津の地は[[駿府藩|駿河府中藩]]が置かれたときはその領地となり、それ以外の時期は幕府領となり、城も破却された。

沼津に再び大名の本拠が置かれるのは[[安永]]6年([[1777年]])であり、水野出羽守忠友が[[三河]][[大浜藩]]より転封してきた事による。忠友は[[享保]]10年([[1725年]])に殿中刃傷により改易となった[[松本藩]]主[[水野忠恒|水野隼人正忠恒]]の従兄弟であり、[[寛保]]2年([[1742年]])に忠恒の名跡を継いだ父[[水野忠穀|出羽守忠穀]]の跡を継ぎ、[[明和]]5年([[1768年]])に加増により大浜で1万3000石を領して大名に復帰していた。沼津転封後幕府の命により当地に築城する。そした後、[[明治維新]]を経て[[版籍奉還]]すであまで水野家の支配が続く
 
第2代藩主・水野忠成は[[徳川家斉]]時代に[[老中]]として権勢を奮い、[[田沼意次]]以上に賄賂を横行させる「賄賂政治」を行なった人物として有名である。そのため第3代藩主・水野忠義や第4代藩主・水野忠武は[[天保の改革]]を行なった[[水野忠邦]]から家斉派に対する粛清として、様々な普請を負担するという報復を受けた。
 
第6代藩主・水野忠寛は[[井伊直弼]]に同調して[[側用人]]として幕末期に権勢を奮った。第7代藩主・水野忠誠は佐幕派として功を挙げた。第8代藩主・水野忠敬は[[慶応]]4年([[1868年]])の[[戊辰戦争]]で新政府に協力したが、[[徳川家達]]が東海地方に入ってきたため、新政府の命により、[[明治]]元年([[1868年]])7月に[[上総]][[菊間藩]]に移封され、沼津藩は廃藩となったのである。
 
== 城地 ==
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== 歴代藩主 ==
=== 大久保(おおくぼ)家 ===
*'''水野家'''(1777年 - [[1868年]])
*(慶長6年(1601年)-慶長18年(1613年))
譜代 2万石→3万石→5万石
[[譜代]]。2万石。
#初代 [[水野忠友|水野出羽守忠友]](ただとも)
#[[大久保忠佐|大久保治衛門忠佐]]
#二代 [[水野忠成|水野出羽守忠成]](ただあきら)
 
#三代 [[水野忠義|水野出羽守忠義]](ただよし)
=== 水野(みずの)家 ===
#四代 [[水野忠武|水野出羽守忠武]](ただたけ)
*(安永6年(1777年)-慶応4年([[1868年]]))
#五代 [[水野忠良|水野出羽守忠良]](ただよし)
譜代 2万石→3万石→5万石
#六代 [[水野忠寛|水野出羽守忠寛]](ただひろ)
#七代 [[水野忠|水野出羽守忠]](ただのぶ) とも)
#八代 [[水野忠|水野出羽守忠]](ただのり)あきら)
#初代 [[水野忠|水野出羽守忠]](ただとも)よし)
#二代 [[水野忠|水野出羽守忠]](ただあきら)たけ)
#三代 [[水野忠|水野出羽守忠]](ただよし)
#五代 [[水野忠|水野出羽守忠]](ただよし)ひろ)
#四代 [[水野忠|水野出羽守忠]](ただたけ)のぶ)
#六代 [[水野忠|水野出羽守忠]](ただひろ) のり)
 
== 関連事項 ==
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[[Category:藩|ぬまつはん]]
[[Category:静岡県の歴史|ぬまつはん]]
[[Category:大久保氏|*ぬまつはん]]
[[Category:水野氏|*ぬまつはん]]