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'''アレクサンドル・ミハイロヴィチ'''('''Александр Михаилович''' ?-1339年)は、[[ウラジーミル大公]](1326年-1327年)、[[トヴェリ]][[大公]]([[1326年]]-[[1339年]])、父は[[ミハイル・ヤロスラヴィチ]]、母は[[ロストフ]]公の娘アンナ・ドミトリエヴナ。兄[[ドミトリー・ミハイロヴィチ]]の死後、トヴェリ大公位を継ぐ。またウラジーミル大公にも任じられる。息子にはフョードル、レフ、フセヴォロド、ウラジーミル、アンドレイがいる。娘ウリアナはリトアニア大公[[アルギルダス]]に嫁ぎ、マリアは[[モスクワ大公国|モスクワ大公]][[セミョーン (モスクワ大公)]]に嫁ぐ。
 
== 事跡 ==
1326年に兄と共に[[サライ]]に行く。アレクサンドルが先に帰国した後、兄が[[モスクワ]]の[[ユーリー3世]]を[[ウズベク・ハン]]の前で殺害。
 
1327年にトヴェリに[[バスカク]]の[[チョル・ハン]]が到着。
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1339年に[[イヴァン1世]]がアレクサンドルのことをウズベク・ハンに訴える。
 
同年、[[ハン]]国に出頭し、そこで息子[[フョードル]]と共に[[処刑]]される。
 
[[Category:ウラジーミル大公|あれくさんとるみはいろういち]]