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==“本城伝説”==
*高校時代に重量フォワードを擁したチームの司令塔だったのに比べて、進学した早稲田は軽量フォワードだった。おまけにチームは[[1977年]]の不祥事発覚によって一気に低迷期に入っていた。本城の進学は同期の[[吉野俊郎]][[津布久誠]]の入学とともにチーム・ファンにとって待望のものであった。実際、入学早々の部内試合で一軍に抜擢、そのプレーで周囲の度肝を抜いて見せた。
*宿澤は、アマチュア・ラグビー界では文武両道の「模範生」と言われた。
*以来、4年間の公式戦全試合にフル出場、1981年の招待試合ではダブリン大を破った。4年間のプレースキックはすべて本城が蹴り、成功率は56.1%(トライ後のコンバージョンに限る。対抗戦のみ)。対抗戦通算で24トライ、ドロップゴール4。
*:優等生だった彼は、本当は[[東京大学]]への進学を考えていたが、[[東大紛争]]で入試が中止されたので、やむなく早大へ進学した。
*そのプレーは華麗の一言に尽きた。プレースキックだけでなくパントやロングキックも精確、さらに軽量フォワードのハンディを背負いながら緩急やパスワーク、ステップワークをフルに駆使して絶妙の間合いで相手ディフェンスを軽やかに切り裂いてみせる。スリリングにして鮮やかなゲームメイクで数々のプレー・名試合を演出、ラグビーセンスにあふれたそのプレーは来日したフランス代表の監督をして「インテリジェンスを感じた」と、世界の表舞台でも通用すると評価させるほどだった。
*:ラグビーの用事は、基本的に土日祝日・有給休暇しか使わない。1994年に早大の監督を勤めた時も、毎週水曜日だけは定時に退社してグランドに駆けつけ、後は土日祝日を利用していたという。前早大監督の清宮克幸は、この「サラリーマン監督」の考えには否定的であり、フルタイムでないと監督を引き受けないと明言していた。また、現在の監督である中竹竜二もフルタイム監督であり、最近の大学ラグビーの監督は関東学院大の春口廣、慶大の松永のように監督専任が主流となりつつある。
*そうした華麗なプレースタイルに加えて、甘いマスク・華奢な容姿(決してひ弱ではないのだが)も相まって、特に女性からの支持を高く集めた。練習場である東伏見グラウンドには「東伏見族」と呼ばれる早大ファン(主に男性)を押しのけるように多数の女性たちが集まって本城の練習を息を潜めて見守り、[[秩父宮ラグビー場|秩父宮]]や[[国立競技場]]には満杯のファンが詰めかけた。専門誌はもとよりスポーツ誌や一般誌の表紙を本城が飾るなど、まさにラグビー界のアイドルだった。その加熱ぶりはのちの[[平尾誠二]]や、[[釜石シーウェイブス|新日鐵釜石]]・[[神戸製鋼コベルコスティーラーズ|神戸製鋼]]などの人気も及ばなかった。80年代以降のラグビー界の人気・発展の礎を築いた、最大の功労者であるといえる。
*:日本ラグビー協会の強化委員長に就任していた際も、前述のように大阪転勤が決まったたため、ラグビー関係の役職から全て退く意向を示して辞任している。
*その象徴的な試合が[[1981年]]12月6日の[[早明戦]]。定員を超え今後も破られないと言われる国立競技場最多の66,999人を集めた。試合は明治圧倒的有利の戦前評・10kg以上のFWの平均体重差を覆し、早稲田が5年ぶりの早明戦勝利を遂げた。
*:ロンドン駐在時代に、NHKニュースのコメンテーターとして出演しており、ラグビーのテレビ解説者としてもNHKに頻繁に登場していた。
*ラグビー界最大のスターだった本城だが、わずかにディフェンス、特にタックルが甘かったことから日本代表としての評価は低く、WTBでの獲得と合わせ代表キャップ10に留まった。卓越したセンス・プレーからすれば冷遇されたと言わざるを得ない。
*:金融界でその実力を知られるようになったのは、2001年からの市場営業統括部長時代。金利低下局面の追い風も受けながら、同部門は金利関連の取引によって年間で4000億円もの業務純益を出したこともある。当時、三井住友銀の業務純益の4割に当たる規模。泥沼化する不良債権処理のため、利益が底なしに食いつぶされていく中で「市場営業部門の収益が大きな支えになった」(三井住友銀幹部)ともいい、同行を支えた立役者でもある。
 
*講演会などで「'''戦略は大胆に、戦術は緻密に'''」「'''リーダーは選ぶものではではなく、育てるもの'''」と自身の信条をよく述べていた。
 
*「ノーギャラで良いからディーラーをやりたい」と述べており、銀行マンとしての仕事も両立するという信条を崩していなかった。
 
*告別式の際、当時の頭取で旧住友出身の[[奥正之]]が弔辞の中で、「君の人生が不規則バウンドして、'''ノーサイド'''を迎えたことが悔しい」と述べている。銀行マンであると同時にラガーマンとしての実績をもっと遺憾なく発揮してほしいということを代弁していたと云われている。