「府兵制」の版間の差分
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「郷兵」は、漢人農民が多かったが[[五胡十六国時代]]以来、関中に移り住んだ胡族もかなり含まれていた。
こうした郷兵部隊が、550年頃までに「二十四軍」に編成され、「開府」と呼ばれる司令官がそれぞれ一軍を統率する形に組織された。二人の「開府」は一人の「大将軍」に率いられ、二人の「大将軍」は、一人の「柱国」によって率いられた。「[[柱国]]」は西魏の6人の有力者であった。この府兵軍団を率いるのが全体の統括者で
[[西魏]]、[[北周]]での兵籍は、[[隋]]の時代に兵民籍の区別を廃止して一般民戸とし、[[唐]]がそれを受け継いだ。この時期、成人男子を対象に3人に1人の割合で徴兵し、1年に1~2回、1ヶ月間国都の衛士の勤務 、3年間、防人として辺境の防衛にあたらせた。
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