「孫六兼元」の版間の差分

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'''孫六兼元'''(まごろくかねもと、大永3年(1523年)2月-天文7年(1538年)2月)は室町後期に美濃国で活動した[[刀工]]である。俗名'''孫六'''と号す。[[古刀]]最上作にして[[最上大業物]]。
 
==概要==
今日「孫六」という俗名は「校正古刀銘鑑」に於ける二代目兼元をさすのが慣わしとなっている。末関の頂点を二分する2代目兼定とならんで美濃伝を世に知らせしめた。[[永正]]の頃に[[兼定 (初代)|初代兼定]]のもとで修行し、その息子「[[兼定_(2代)|兼定(二(2代)]]」と兄弟の契りを結んだという。習作時代は兼本と銘を切り、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に「折れず曲がらずよく斬れる」と人口に膾炙し、[[武田信玄]]公・[[豊臣秀吉]]公・[[前田利政]]公など錚々たる武将が孫六を佩刀した。
 
==作刀期間==
作刀期間は[[大永]]3年([[1523年]])2月から[[天文 (元号)|天文]]7年([[1538年]])2月までの年期作が認められる。大永8年([[1528年]])8月以降から3本杉心が芽生え始め、銘振りにも力強さが加わり「兼」の字の第四画が弓状に反っていたものが角ばるようになり、これまでの室町様式のものから二字銘兼元にみる鎌倉末期様式を踏襲した豪壮な姿形のものも造るようになり作域が広い。
 
==特徴==
;姿形
:磨り上げられても流麗さを損なわない輪反り、身幅をひろく重ねをうすくして平肉なく、刃通りをよくした剣形、先身幅細らず、切先延び、ふくら枯れ、といった[[正宗]]を手本にした造り込み。正宗は蒙古の鎧(革製)に対して造られたもので、孫六兼元は[[当世具足]]に対して造られており、これまでの「3枚鍛」等々から美濃伝特有の「四方詰め鍛」という新たな構造へと進化した。従って大段平(孫六の自信の顕れの作)などの作も他工などの3枚鍛え以上の強度であることは戦国時代に於いて実証されており、通常の(3枚鍛)大段平とは本質的に異なる。日本刀は刃に対しては強いが棟に対しては弱い、この弱点を克服したのが「四方詰め鍛」なのである。「四方詰め鍛」とは軟らかい鋼の四方を硬い鋼で固める鍛錬法で、「複雑高度な技術を必要」とし、関鍛冶の賜物である
;肌
:平地が板目流れて柾の加減(柾が少ない)が見事、これが他の兼元を名乗る刀工と一線を画する、但し戦国武将からの特別注文打ちの平造りの短刀に限って杢目勝ちの肌のが現存する。
;刃紋
:刃縁柔らかく尖り心の互の目に力強さがあり焼頭から刃先に抜け刃中の働き(金筋・砂流)が豊富で自ら創案した凄絶な草の3本杉となり、所謂「関の孫六3本杉」として世上誉れ高い。地鉄そのものが強靭にできているため、研ぎ減って刃が駆け出したものでも他の刀をも両断してしまうほどの強靭性を誇る。その秘密は美濃伝特有の「四方詰」鍛錬法による。「四方詰」とは軟らかい鋼の四方を硬い鋼で固める鍛錬法で、複雑高度な技術を必要とし、関鍛冶の賜物なのである。
 
==間違った認識==
刀剣界に於いて2代目兼元(孫六)は赤坂(現在の[[大垣市]])で鍛刀していたのだから「関の孫六」ではない、などといわれているが、それは早勝手というものである。その根拠は、[[延徳]]の終わり頃に清関兼元と兼基と孫六兼元らが赤坂から産出する優秀な赤鉄鉱を求めるため関から赤坂へ出向したのであって、赤坂千手院鍛冶には同化していない。その証拠に関鍛冶にだけ許される「兼」の字を用い、茎の仕立て(鑢目など)など関鍛冶の掟を完全に墨守しており、古来より親しまれている通り「関の孫六」が正しい。
 
==大衆とともにある名工の代表者==
「孫六」という縁起の良い名から孫六酒・孫六煎餅・[[孫六温泉]]・映画・時代小説等々「孫六」に肖った名称は数多く、また日本の刃物(包丁・ナイフ)の代名詞として[[ドイツ]]の[[ゾーリンゲン]]と二分するほど海外で知られている。
 
[[Category:日本刀の刀工|まころくかねもと]]