アモス・ギタイ (ヘブライ語: עמוס גיתאי‎、英語: Amos Gitai1950年10月11日 - ) は、イスラエルハイファ生まれの映画監督中東を舞台にしたドキュメンタリーや長編映画を制作している。

アモス・ギタイ
Amos Gitai
Amos Gitai
本名 Amos Weinraub
生年月日 (1950-10-11) 1950年10月11日(73歳)
出生地 ハイファ
国籍 イスラエルの旗 イスラエル
配偶者 Rivka Gitai (1980-)
主な作品
『フィールド・ダイアリー』
キプールの記憶
 
受賞
カンヌ国際映画祭
フランソワ・シャレ賞
2000年キプールの記憶
ロベルト・ロッセリーニ賞
2005年
ヴェネツィア国際映画祭
ロベール・ブレッソン賞
2013年
その他の賞
ロカルノ国際映画祭
名誉豹賞

2008年
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略歴 編集

1950年、建築家ムニオ・ワインローブ・ギタイの下に生まれる。イスラエル工科大学で父と同じく建築学を学び、建築に材をとった実験的な作品を8ミリで撮り始める。米国に留学し、カリフォルニア大学バークレー校で建築の博士号を取得。

1973年の第四次中東戦争ヘリコプターでの負傷兵救護チームの一員として従軍し、建築の勉強を中断。従軍中に8ミリでの撮影も行う。

1977年からイスラエル国営テレビで20本ほどのドキュメンタリー作品を制作する。1979年の『Home』はベルリン国際映画祭ロッテルダム国際映画祭で上映されたが、国内のテレビ局には上映を拒否された。レバノン内戦を描いた1982年の『フィールド・ダイアリー』も放映禁止になり、パリに移る。

その後10年間はヨーロッパを拠点とする。1985年の『エステル』、1989年の『ベルリン・エルサレム』、1992年の『ゴーレム、さまよえる魂』は亡命三部作と呼ばれている。1993年にオスロ合意が結ばれたことにより、再びハイファに戻る。

帰国後、1993年にドキュメンタリー映画『戦争の記憶』Kippur: War Memoriesを制作。従軍中にシリアのミサイルによりヘリコプターがゴラン高原に墜落した実体験が基になっている。この作品が2000年の長編映画『キプールの記憶』に繋がる。

エピソード 編集

これまでカンヌ国際映画祭のコンペティション部門に『カドッシュ』『キプールの記憶』『ケドマ 戦禍の起源』『フリー・ゾーン 〜明日が見える場所〜』の4作品が、ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に『エデン』『アリラ』『プロミスト・ランド』『アナ・アラビア』の4作品が選出され、欧州で評価が高い。『フリー・ゾーン 〜明日が見える場所〜』でハンナ・ラズロカンヌ国際映画祭女優賞を受賞した。

日本で劇場公開された長編は『キプールの記憶』のみである。その他の作品は、東京国際映画祭東京フィルメックスなどの映画祭で上映されたり、アテネフランセ (東京) や東京日仏学院 (現 アンスティチュ・フランセ東京) などで特集上映されている。

特に東京フィルメックスでは第一回から上映され、以降毎年のように新作が発表され、常連監督となっている。2009年の第10回東京フィルメックスでの来日時には村上春樹の「壁と卵」スピーチにも言及した。

40年余りのキャリアで80以上の賞を受賞している。2008年にはロカルノ国際映画祭から名誉豹賞を授与された。

父はバウハウス出身でミース・ファン・デル・ローエとの共同プロジェクトも多い、著名な建築家ムニオ・ワインローブ・ギタイ。ポーランド出身で18歳の時にドイツに行き、1933年にバウハウスが閉鎖されるとナチに捕えられ、友人たちの助けでバーゼルに逃れ、ハイファへ移住した。2012年の『父へのララバイ』は膨大な資料から父の個人史をさかのぼった作品である。

一部のイスラエルの批評家からは、彼の作品はしばしば現実を単純化しており、そのため欧州の人気は高いが国内ではあまり評価されていないという指摘もある。

主な作品 編集

参考文献 編集

脚注 編集

関連文献 編集

外部リンク 編集