アレクサンドリーネ・フォン・プロイセン (1915-1980)

アレクサンドリーネ・フォン・プロイセンAlexandrine von Preußen, 1915年4月7日 - 1980年10月2日)は、ドイツプロイセンの旧統治者家系ホーエンツォレルン家の一員。最後のドイツ皇帝プロイセン王ヴィルヘルム2世の孫娘の1人。

アレクサンドリーネ
Alexandrine
ホーエンツォレルン家
1930年

全名
出生 1915年4月7日
ドイツの旗 ドイツ帝国
プロイセンの旗 プロイセン王国ベルリン、皇太子宮殿
死去 (1980-10-02) 1980年10月2日(65歳没)
西ドイツの旗 西ドイツバイエルン州オーバーバイエルン、シュタルンベルク
埋葬 西ドイツの旗 西ドイツバーデン=ヴュルテンベルク州ヘヒンゲン、ホーエンツォレルン城内ザンクト・ミヒャエル稜堡
父親 ヴィルヘルム・フォン・プロイセン
母親 ツェツィーリエ・ツー・メクレンブルク=シュヴェリーン
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生涯 編集

第一次世界大戦中の1915年、ドイツ皇太子ヴィルヘルムと、その妻でメクレンブルク=シュヴェリーン大公女のツェツィーリエ皇太子妃夫妻の第5子、長女としてベルリンの皇太子宮殿で生まれた。父方の祖父母はドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と皇后アウグステ・ヴィクトリア、母方の祖父母はメクレンブルク=シュヴェリーン大公フリードリヒ・フランツ3世と大公妃アナスタシア。アレクサンドリーネ・イレーネ(Alexandrine Irene)と名付けられた。名前のひとつイレーネ(ギリシャ語で「平和」)は第一次世界大戦の2年目に生まれたことから付けられたと考えられている。家族からは「アディニ(„Adini“)」の愛称で呼ばれた。

 
19歳のアレクサンドリーネ王女(左)、母のツェツィーリエ皇太子妃、妹のツェツィーリエ王女と共に、1934年

生まれてまもなくダウン症であることが明らかになったが、他の障がい者の王侯貴族の子どもとは異なり、このことで世間から隠されることはなかった。アレクサンドリーネは公式の行事に出席し家族写真に写っている[1]。主に乳母のゼルマ・ベーゼに世話を受け[2]、兄妹たちと一緒にポツダムやエールス(現在のポーランドドルヌィ・シロンスク県オレシニツァ)で育った。1932年から1934年まで教育学者ヨハンネス・トリューパー(Johannes Trüper)の経営するイェーナ特別支援学校に通い、1934年の夏にポツダムに戻った。1936年にバイエルン州ペッキング英語版に移り、第2次世界大戦中はペッキングに隠棲していた。

1945年末にシュタルンベルク湖畔に小さな家に引っ越し、亡くなるまでその家で過ごした。アレクサンドリーネのもとには定期的に家族が訪ねていて、特に兄ルイ・フェルディナントがよくやって来ていた。

1980年に亡くなり遺骸はヘヒンゲンバーデン=ヴュルテンベルク州ツォレルンアルプ郡)のホーエンツォレルン城内のザンクト・ミヒャエル稜堡(St.-Michaels-Bastei)に埋葬された。

脚注 編集

  1. ^ Russell, Gareth (August 6, 2014). The Emperors: How Europe's Rulers Were Destroyed by the First World War. Amberley Publishing Limited. pp. 30 
  2. ^ Preussen.de - Alexandrine”. Preussen.de. 2008年10月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月22日閲覧。

参考文献 編集

  • Hans Rall: Wilhelm II. – Eine Biographie. Verlag Styria, Graz 1995

外部リンク 編集

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