アントニオ・ピッツォニア

アントニオ・ピッツォニアAntonio Reginaldo Pizzonia Junior, 1980年9月11日 - )は、ブラジル人の自動車レーサー。ピッゾニアと表記される場合もある。

アントニオ・ピッツォニア
基本情報
フルネーム アントニオ・レジナウド・ピッツォニア・ジュニオール
略称表記 PIZ
国籍 ブラジルの旗 ブラジル
出身地 アマゾナス州の旗 アマゾナス州マナウス
生年月日 (1980-09-11) 1980年9月11日(43歳)
F1での経歴
活動時期 2003 - 2005
所属チーム ジャガー, ウィリアムズ
出走回数 20
タイトル 0
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 0
通算獲得ポイント 8
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 2003年オーストラリアGP
初勝利
最終勝利
最終戦 2005年中国GP
テンプレートを表示

他の多くのブラジル人ドライバーとは異なり、サンパウロリオ・デ・ジャネイロといった南部の大都市出身ではなく、北部熱帯雨林地帯のアマゾナス州出身であることからジャングル・ボーイと呼ばれている。もっとも、ピッツォニアの出身地マナウスアマゾン熱帯雨林に囲まれた陸の孤島であることはたしかだが、アマゾン川に面した大港湾都市である。

プロフィール 編集

1991年から1996年にかけてカートレースに参戦した後、1997年よりイギリスでフォーミュラ・ボクスホール・ジュニアに参戦するようになる。その後、2000年にはイギリス・フォーミュラ3選手権で3勝をあげ、チャンピオンを獲得する。この活躍が認められ、翌2001年からは国際F3000に参戦し、選手権2位となる。また、F1ウィリアムズチームでのテストの機会を得ることとなった。

2003年に、ピッツォニアは、ジャガーでマーク・ウェバーのチームメイトとしてF1デビューを果たす。しかし、ジャガーチームは、トップチームの様に2人のドライバーを等しく戦わせられるほどのチーム力はなく、ピッツォニアはチームメイトに比べて、思わしくない成績にとどまってしまう。また、チーム内の政治的な動きにも巻き込まれた形となり、ついにイギリスGP終了後にピッツォニアは解雇されることとなり、その後釜にはミナルディジャスティン・ウィルソンがつくこととなった。

F1でのレギュラーシートを失ったピッツォニアは、2004年に、かつてテストドライバーを務めたウィリアムズチームに復帰し、マルク・ジェネに次ぐテストドライバーに就任する。

2004年のアメリカGPでレギュラードライバーのラルフ・シューマッハが怪我により長期欠場を余儀なくされると、フランスGPとイギリスGPではジェネが代役を務めたが、今一つの走りに止まった為、ドイツGPからの4戦ではピッツォニアがその座に収まった。ピッツォニアはこのチャンスを生かし、リタイアとなったベルギーGPを除く3レースで7位に入り、チームのコンストラクターズポイント獲得に貢献した。

2005年シーズンを迎えるにあたり、ウィリアムズは、ジャガーから移籍してきたマーク・ウェバーのチームメイトに、当初はB・A・Rジェンソン・バトンを据えることを目論んでいたが、契約承認委員会の決定でそれを断念せざるを得なくなると、ピッツォニアとジョーダンニック・ハイドフェルドの間のオーディションで決定することとしたが、ハイドフェルドにレギュラーシートを奪われた。

2005年のイタリアGP前のモンツァ・テストでのクラッシュの影響で、ハイドフェルドがイタリアGPの土曜セッション以降を欠場することになり、ピッツォニアが代役として1年ぶりにステアリングを握ることとなった。ピッツォニアは予選走行順の不利がありながらも堅実な走りを見せ、またも7位入賞を果たした。次戦のベルギーGPでも代役を務め、ハイドフェルドが復帰を目指したトレーニング中に再度負傷したことから、つづくブラジルGP以降のシーズン残り3戦でも代役を務めることになった。

翌2006年はハイドフェルドがウィリアムズを去ったが、このシートをニコ・ロズベルグが獲得すると、ピッツォニアはチームを離脱した。 その後、チャンプカーでレギュラーシート(チーム:Rocketsports Racing)を獲得。シリーズポイントランキングは18位であった。

2007年はFMSインターナショナルからGP2に参戦していたが、成績不振によりシーズン途中で解雇された。

2008年はロングビーチで行われたチャンプカー最後のレースに、かつて所属していたRocketsports Racingから参戦した。結果は16位と完走したドライバーの中では最下位であった。 その後はスーパーリーグ・フォーミュラSCコリンチャンス・パウリスタのレーシングチームから参戦した。

2009年も前年に引き続いてスーパーリーグ・フォーミュラにSCコリンチャンス・パウリスタから参戦。

レース戦績 編集

イギリス・フォーミュラ3選手権 編集

チーム シャーシ エンジン クラス 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位 ポイント
2000年 マノー・モータースポーツ ダラーラ・F399 無限・MF204 C THR
1
CRO
1
OUL
2
DON1
11
DON2
2
SIL
2
BRH
1
DON1
1
DON2
3
CRO
Ret
SIL
2
SNE
1
SPA
2
SIL
9
1位 200

国際F3000選手権 編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 順位 ポイント
2001年 ペトロブラス・ジュニア・チーム INT
9
IMO
4
CAT
6
A1R
4
MON
Ret
NÜR
6
MAG
10
SIL
3
HOC
1
HUN
Ret
SPA
8
MNZ
Ret
6位 22
2002年 INT
4
IMO
4
CAT
10
A1R
7
MON
4
NÜR
3
SIL
5
MAG
4
HOC
Ret
HUN
Ret
SPA
Ret
MNZ
DSQ
8位 18

F1 編集

所属チーム # ランキング 獲得ポイント 決勝最高位・回数 表彰台回数 予選最高位・回数
2003年 ジャガー 15 21位 0 9位・1回 0回 8位・1回
2004年 ウィリアムズ 4 15位 6 7位・3回 0回 6位・1回
2005年 8 22位 2 7位・1回 0回 12位・1回
チーム  シャシー  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 WDC ポイント
2003年 ジャガー R4 AUS
13
MAL
Ret
BRA
Ret
SMR
14
ESP
Ret
AUT
9
MON
Ret
CAN
10
EUR
10
FRA
10
GBR
Ret
GER HUN ITA USA JPN 21位 0
2004年 ウィリアムズ FW26 AUS MAL BHR SMR ESP MON EUR CAN USA FRA GBR GER
7
HUN
7
BEL
Ret
ITA
7
CHN JPN BRA 15位 6
2005年 FW27 AUS MAL BHR SMR ESP MON EUR CAN USA FRA GBR GER HUN TUR ITA
7
BEL
15
BRA
Ret
JPN
17
CHN
13
22位 2
  • †印はリタイアだが、90%以上の距離を走行したため規定により完走扱い。

(key)

アメリカン・オープンホイール 編集

チャンプカー・ワールドシリーズ 編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 順位 ポイント Ref
2006年 ロケットスポーツ・レーシング LBH
10
HOU MTY MIL POR CLE TOR EDM SJO DEN MTL
11
ROA SRF
10
MXC
12
18位 43 [1]

インディカーシリーズ 編集

チーム シャーシ No. エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 順位 ポイント Ref
2008年 ロケットスポーツ パノス・DP01 9 コスワース HMS STP MOT1 LBH1
16
KAN IND MIL TXS IOW RIR WGL NSH MDO EDM KTY SNM DET CHI SRF2 45位 0 [2]

¹ Run on same day
² エキシビジョンレースのため選手権ポイント対象外イベント。

関連項目 編集

  1. ^ Antônio Pizzonia – 2006 Champ Car World Series Results”. Racing-Reference. NASCAR Digital Media, LLC. 2023年8月15日閲覧。
  2. ^ Antonio Pizzonia – 2008 IndyCar Series Results”. Racing-Reference. NASCAR Digital Media, LLC. 2023年8月1日閲覧。