アンドル=エ=ロワール県

フランスの県

アンドル=エ=ロワール県 (アンドル=エ=ロワールけん、Indre-et-Loire) は、フランスサントル=ヴァル・ド・ロワール地域圏の県である。

アンドル=エ=ロワール県
Indre-et-Loire
Indre-et-Loire章
アンドル=エ=ロワール県章
位置
Indre-et-Loireの位置
概要
県番号 37
地域圏 サントル=ヴァル・ド・ロワール
県庁所在地 トゥール
郡庁所在地 シノン
ロシュ
3
小郡 37
コミューン 277
県議会議長 ジャン=ジェラール・ポミエ
LR
統計
人口
国内41位
  (2012年)
605,819人
人口密度 99人/km2
面積¹ 6,127 km2
¹ 「French Land Register data」(1平方キロ以上の湖沼、エスチュアリー、氷河などの水面積除く。
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歴史 編集

 
かつてのトゥーレーヌを現在の県で色分けした図
 
1942年の県の地図

アンドル=エ=ロワール県は1790年、その他の82の県と同時に設置された。その名称はアンドル川ロワール川に由来する。面積は旧トゥーレーヌをほぼ引き継いだものであり、そこにブルゲイユを含む旧アンジュー州の東部が加えられ、北部のギゾーを流れるロワール川流域がシャトー=ラ=ヴァリエールまで加えられた。

県内にあるコミューンリシュリューは、ソミュール知事でもあった16世紀の枢機卿リシュリューがつくった自治体である。旧トゥーレーヌの東部はロワール=エ=シェール県に含まれている。

1815年にワーテルローの戦い第七次対仏大同盟が勝利すると、県は1818年11月までプロイセン軍に占領されていた。

歴代のフランス国王が滞在した旧トゥーレーヌは、長きにわたり保守的な土地柄であった(オノレ・ド・バルザックが自身の作品の中でこのことに触れている)。第三共和政初期にまで王党派であったほどである。

にもかかわらず徐々に、農村部を中心に県は共和主義者の地盤となっていった。さらに、穏健な左派急進的な社会主義が浸透していった。

第二インターナショナルによる1920年のトゥール会議以降、アンドル=エ=ロワールはフランス共産党の強力な牙城となった。トゥールに近接するサン=ピエール=デ=コルプは鉄道施設を抱え、強固な労働者思想を持つに至った。以後コミューンは共産党への忠誠を裏切らず、共産党の国会議員であるマリー=フランス・ボーフィユがサン=ピエール=デ=コルプ市長を務めている。

ナチス・ドイツによるフランス占領時代、県には分断線が引かれ、北の占領地域(ドイツ占領地域)と南の自由地域(ヴィシー政府支配)とに分断されていた。

地理 編集

 
アンドル=エ=ロワール県の地図

県はロワール=エ=シェール県、アンドル県ヴィエンヌ県メーヌ=エ=ロワール県サルト県と接している。パリ盆地の南端に位置し、ロワール川、アンドル川、ヴィエンヌ川シェール川や多くの支流が流れる。地形学上、南へ向かうと標高が上がるが北部は平坦である。

気候 編集

アンドル=エ=ロワール県の気候は温暖である。ロワール川は、しばしば北フランスと南フランスの境となっている。夏は全般的に暑く(年間最高気温は33℃)、1947年から2003年までの間に記録した最高気温は42℃である。対照的に気温が非常に低くなることはまれである。-10℃を記録したのは、1985年から1986年にかけての冬と、1996年から1997年にかけての冬である。ロワール川が凍り付くことがあり、1956年の冬には徒歩で川を渡れるほどの厳しい冬となった。-10℃を記録したときのロワール川は、氷の塊を上流から運んでくる。

降雨量は500mmから700mmで、1976年、2003年、2006年には洪水となった。降雪は年10日以下とまれである。

人口統計 編集

1968年 1975年 1982年 1990年 1999年 2006年 2007年 2012年
437 866 478 597 506 093 529 345 553 747 580 312 583 084 605 819

出典 - 1968年以降 Insee[1] · [2]

観光 編集

脚注 編集

出典 編集

  1. ^ "Évolution et structure de la population (de 1968 à 2007)". Insee. 2010年7月20日閲覧
  2. ^ "Recensement de la population au 1er janvier 2007". Insee. 2010年7月20日閲覧

外部リンク 編集