イグミシュモンゴル語: Yïγmïš、? - 1311年)は、大元ウルスに仕えたウイグル人ユグムッシュとも。インド洋交易の進展に寄与してクビライから重用されていたが、失敗に終わった至元30年(1293年)のジャワ遠征に参加し失脚してしまったことで知られる。

元史』などの漢文史料では亦黒迷失(jyìhēimíshī)、『集史』などのペルシア語史料ではیغمش(īghmish)と記される。

概要 編集

生い立ち 編集

イグミシュの出自については不明な点が多いが、ウイグル人の出で、幼い頃からクビライのケシク(宿衛)に仕えていたという[1]。至元9年(1272年)、恐らくこの頃成人したイグミシュは初めて八羅孛(現ポーク海峡沿岸部)国への使者に抜擢され、以後イグミシュは主に海外諸国との折衝に重用されるようになる[2]。派遣から3年後、八羅孛国から帰還したイグミシュは現地の宝物を携えてクビライに謁見し、大いに喜んだクビライはイグミシュに金虎符を与えた。至元12年(1275年)、再び八羅孛国を訪れたイグミシュは今度は現地の名僧・名薬を携えて戻り、再びクビライより多大な下賜を受けた。至元13年(1276年)、平定されたばかりの旧南宋領金壇県ダルガチに任じられた[3]。しかし、更に至元14年(1277年)には兵部侍郎となって中央に帰還し、この職を4年に渡って勤め上げた[4][5]

東南アジア経略 編集

至元18年(1281年)、イグミシュは東南アジア方面経略のため新設された荊湖・占城等処行中書省の参知政事(参政)に任じられ、チャンパ王国(占城)に招諭のための使者として派遣された。至元21年(1284年)、チャンパから帰還したイグミシュは今度はシンハラ(僧迦剌、現スリランカ)国に派遣され、そこで仏鉢・仏舎利を観覧した。同年にクビライによって派遣された船団がシンハラ国を訪れたことはマルコ・ポーロの『東方見聞録』にも記載されており、マルコ・ポーロは「シャキャムニ・ブルガンのため」ことを記録している。ただし、至元21年のシンハラ行ではあくまで仏舎利を観覧したのみで、後述するように実際にイグミシュが仏舎利をクビライの下に献上したのはその3年後のことであった[6]

シンハラ国から帰還した同年、イグミシュは今度は鎮南王トガンの下に仕え、チャンパ王国及びチャンパへの出兵協力を拒否した大越国陳朝(安南)への進出に従事することになった。トガン率いるモンゴル軍は一時は陳朝の首都(ハノイ)を陥落させたものの、やがて劣勢となり主将のソゲドゥが戦死するに至った。イグミシュは軍を大浪湖に駐屯させることを進言し、トガンらが本国に帰還した後も殿軍として残ったが、至元22年(1285年)にイグミシュ本人も帰還している[7][8]。ただし安南出兵の計画は中止されたわけではなく、至元23年(1286年)には安南進出を担当する安南行中書省の参知政事に任じられている[9][10]

至元24年(1287年)、イグミシュは4度目の海外遣使としてマラバール(馬八児)国に赴いたが、逆風のために往路だけで1年ほどを費やしている[11]。マラバールでイグミシュはかつて観覧した仏舎利を手に入れ、悪天候に苦戦しながらも一年後に帰還した。クビライの下に到着したイグミシュはマラバールの名医と名薬・仏舎利などを披露し、また自らの私財で購入した紫檀材も献上した。その後、クビライより「汝が海を渡ったのはこれで何回目となる?」と尋ねられたイグミシュは既に4度海を渡りましたと答え、その活動を評価したクビライによって資徳大夫・江淮行尚書省左丞・行泉府太卿に任じられた[12]。行泉府太卿とは海洋進出するオルトク商人を管轄する行泉府司の長官であり、この頃泉府司に影響力を有していたサンガとも関係を有していたのではないかとみられる[9]

ジャワ遠征 編集

至元29年(1292年)、ジャワ島シンガサリ朝への侵攻が計画されると、イグミシュはそれまでの豊富な渡海歴を買われて遠征軍の司令官に抜擢された(モンゴルのジャワ侵攻)。イグミシュと実戦指揮官の史弼高興は新設の福建行省平章政事に任じられ、同年末に泉州港からジャワ島に向けて出港した。その途中、インドシナ半島のチャンパー国逗留した時には郝成・劉淵らを南巫里(Lamuri/現アチン)国、速木都剌(Sumudra/スマトラ)国、不魯不都(Borobudur?)国、八剌剌(Perlak/現スマトラ島西部Perak)、諸国に派遣し、これらの諸国は子弟を遣わして来降の意を示したという[13][14]

至元30年(1293年)、モンゴル軍は無事ジャワ島に到着したものの、当時ジャワ島では最後のシンガサリ王クルタナガラを弑逆したジャヤカトワンと、クルタナガラの娘婿であったウィジャヤが対立する状勢にあった。モンゴル軍はウィジャヤに上手く利用されてジャヤカトワンを討ったものの、ウィジャヤの裏切りによって大敗を喫しジャワ島からの撤退を余儀なくされた。ジャワ島からの撤退時には、イグミシュのみがクビライの判断を仰いでから撤退すべしと主張したのに対し、実戦経験豊富な史弼・高興は即時撤退を主張して結局は後者の意見が採用されたとの逸話が記録されている。帰還したイグミシュ等は同年末に官位剥奪の上家産の3分の1を没収されるという罰を受け、大元ウルス内で全く失脚してしまった[15][16]

晩年 編集

『元史』のイグミシュ列伝はジャワ遠征失敗で以て記述をほぼ終えているが、その他の諸史料にはクビライの死後にいくらか地位を回復させたイグミシュに関する記述が残されている。元貞元年(1295年)、ジャワからの使者が訪れ友好関係が結ばれたことでジャワ遠征軍の諸将の名誉も一部回復されたようで、イグミシュらも家産を返還されたが、官位はそのままであった[17]。元貞2年(1296年)5月、成宗に紫檀を献上しているが[18]、官位が記されておらず、未だ官界への復帰はできていなかったようである[19]至大元年(1308年)に白蓮教の弾圧が行われた際には、白蓮教寺院破壊に反対している[20]。至大3年(1310年)、史弼とともに復職したとみられるが、武宗は「バラマキ」政策を取ったことで有名であり、実態を伴った官職に復帰できたかどうかは疑問視されている[21]

更に、延祐元年(1314年)には福建行省平章の地位を授けられおり、これによりイグミシュは実質的にジャワ遠征失敗以前の地位を取り戻すこととなった[21]。なお、イグミシュの復職を記した「亦黒迷失雪峰題名」は雪峰寺の境内に立碑されており、晩年のイグミシュが仏教と深いかかわりを有していたことを示唆する[22]。イグミシュは河南・江北・江浙・福建・甘粛の幅広い地域に同時に寄進しており、代理人を派遣して寄進を行っていたようである[23]。イグミシュが寄進した金額は記録が残っているものだけでも中統鈔10,100・鈔400錠あり、更にこれとは別に田地や仏典の寄進もしており、莫大な額を寄進していたようである[24]。イグミシュがかつて務めていた泉府司は至元21年に私貿易禁止令が出るほど官員の私貿易が盛んだったようであり、イグミシュも私貿易によって財を築いていたとかんがえられる[24]

延祐3年(1316年)10月、前年に仏寺に寄進したことをブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)に報告しているが、これがイグミシュの生前の最後の記録であり、正確な没年は伝わっていない[21]。晩年にはブヤント・カアンによって呉国公に封ぜられている[25]

関連項目 編集

脚注 編集

  1. ^ 『閩中金石略』巻11「一百大寺看経記」には「赤黒迷失幼年欽奉世祖薛禅皇帝」と記される。『元史』巻102刑法志には「年幼十五以下」 とあることから、イグミシュは15歳以前からクビライに仕えていたようである(北村1981,254-255頁)
  2. ^ 北村1981,255頁
  3. ^ 『至順鎮江志』巻16の「金壇県達魯花赤」条に「亦黒迷失、至元十三年九月至」と記される事に拠る(北村1981,256頁)
  4. ^ 北村1981,256頁
  5. ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「亦黒迷失、畏吾児人也。至元二年、入備宿衛。九年、奉世祖命使海外八羅孛国。十一年、偕其国人以珍宝奉表来朝、帝嘉之、賜金虎符。十二年、再使其国、与其国師以名薬来献、賞賜甚厚。十四年、授兵部侍郎」
  6. ^ 宮2018,730頁
  7. ^ 北村1981,256-257頁
  8. ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「十八年、拜荊湖占城等処行中書参知政事、招諭占城。二十一年、召還。復命使海外僧迦剌国、観仏鉢舎利、賜以玉帯・衣服・鞍轡。二十一年、自海上還、以参知政事管領鎮南王府事、復賜玉帯。与平章阿里海牙・右丞唆都征占城、戦失利、唆都死焉。亦黒迷失言於鎮南王、請屯兵大浪湖、観釁而後動。王以聞、詔従之、竟全軍而帰」
  9. ^ a b 北村1981,257頁
  10. ^ 『元史』巻14世祖本紀11,「[至元二十三年二月]甲辰……以阿里海牙仍安南行中書省左丞相、奥魯赤平章政事、都元帥烏馬児・亦里迷失・阿里・昝順・樊楫並参知政事」
  11. ^ 丹羽1953,85頁
  12. ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「二十四年、使馬八児国、取仏鉢舎利、浮海阻風、行一年乃至。得其良医善薬、遂与其国人来貢方物、又以私銭購紫檀木殿材並献之。嘗侍帝於浴室、問曰『汝踰海者凡幾』。対曰『臣四踰海矣』。帝憫其労、又賜玉帯、改資徳大夫、遙授江淮行尚書省左丞、行泉府太卿」
  13. ^ 丹羽 1953,133-134頁
  14. ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「二十九年、召入朝、尽献其所有珍異之物。時方議征爪哇、立福建行省、亦黒迷失与史弼・高興並為平章。詔軍事付弼、海道事付亦黒迷失、仍諭之曰『汝等至爪哇、当遣使来報。汝等留彼、其餘小国即当自服、可遣招来之。彼若納款、皆汝等之力也』。軍次占城、先遣郝成・劉淵諭降・速木都剌・不魯不都・八剌剌諸小国」
  15. ^ 北村1981,258頁
  16. ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「三十年、攻葛郎国、降其主合只葛当。又遣鄭珪招諭木来由諸小国、皆遣其子弟来降。爪哇主婿土罕必闍耶既降、帰国復叛事、並見弼伝。諸将議班師、亦黒迷失欲如帝旨、先遣使入奏、弼与興不従、遂引兵還、以所俘及諸小国降人入見、帝罪其与弼縦土罕必闍耶、没家貲三之一」
  17. ^ 北村1981,258-259頁
  18. ^ 『元史』巻29成宗本紀2,「[元貞二年五月]丁酉……也黒迷失進紫檀、賜鈔四千錠」
  19. ^ 北村1981,259頁
  20. ^ 北村1981,261頁
  21. ^ a b c 北村1981,260頁
  22. ^ 北村1981,262頁
  23. ^ 北村1981,262-263頁
  24. ^ a b 北村1981,264頁
  25. ^ 『元史』巻131列伝18亦黒迷失伝,「尋復還之。以栄禄大夫・平章政事為集賢院使、兼会同館事、告老家居。仁宗念其屡使絶域、詔封呉国公、卒」

参考文献 編集

  • 植松正『元代江南政事社会史研究』汲古書院、1997年
  • 北村高「元朝色目人「亦黒迷失」の仏教活動」『木村教授古稀記念論文集』永田文昌堂、1981年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 宮紀子『モンゴル時代の「知」の東西』名古屋大学出版会、2018年
  • 丹羽友三郎『中国・ジャバ交渉史』明玄書房、1953年
  • 元史』巻131列伝18亦黒迷失伝