ウィスキー・ア・ゴーゴー

ウイスキー・ア・ゴーゴー(英語:Whisky a Go Go)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ウェスト・ハリウッドにあり、サンセット大通り8901番地、サンセット・ストリップに位置するナイトクラブ。アメリカで最初の本格的なディスコであると言われている。ウィスキー・ア・ゴーゴーの正式なつづりは「Whiskey a Go Go」ではなく、画像や公式サイトにもあるように「Whisky a Go Go」が正しい。なお、「Whisky a Go Go」 の名称は、ポール・パシーヌが1947年にフランスパリに開店したディスコテック「Whisky à Gogo(またはGo-Go)」にあやかっている。

WHISKY A GO GO
サンセット・ストリップに位置するウィスキー・ア・ゴーゴー
情報
通称 The Whisky
種別 ナイトクラブ
音楽ジャンル ロックンロール
開館 1964年1月11日
所在地 カリフォルニア州ウェスト・ハリウッド
サンセット大通り8901番地
位置 北緯34度5分26.768秒 西経118度23分8.2968秒 / 北緯34.09076889度 西経118.385638000度 / 34.09076889; -118.385638000座標: 北緯34度5分26.768秒 西経118度23分8.2968秒 / 北緯34.09076889度 西経118.385638000度 / 34.09076889; -118.385638000
外部リンク http://www.whiskyagogo.com/
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沿革 編集

ウィスキー・ア・ゴーゴーは1964年1月11日シカゴ警察官をしていた経歴を持つエルマー・ヴァレンタインによって設立された。この場所は元々は銀行の建物であり、その後「パーティ」という名のクラブに改装されていたが長くは続かなかった。この時ヴァレンタインは弁護士のセオドア・F・フライヤー、広報のシェリー・デイヴィスとフィル・タンジーニらと手を組んでいた。

このクラブは録音された音楽を流すディスコとして宣伝されたにもかかわらず、ウィスキー・ア・ゴーゴーはジョニー・リバーズ率いるバンドと、彼らの演奏の合間にミニスカートをはいた女性DJが、ステージ右側に吊り下げられた檻でレコードを回すというスタイルでオープンした。リバーズのバンドが演奏している間に女性DJが踊った際、観客はそれが演出の一部であると考えた。こうして女性たちが檻の中で踊るゴーゴーダンサーのコンセプトが生まれたのである。リバーズはその後ウィスキー・ア・ゴーゴーで一部を収録したアルバム「ライブ・アット・ザ・ウィスキー」をヒットさせ、ここで生まれた「ゴーゴー」は国民を熱狂的な流行の渦へと巻き込んだ。その後ミラクルズ1966年に「ゴーイング・トゥー・ア・ゴーゴー」を録音すると(この曲は1982年ローリング・ストーンズがカバーしている)、ウィスキー・ア・ゴーゴーのフランチャイズ店がアメリカ中に次々と現れた。

1966年、ウィスキー・ア・ゴーゴーはサンセット・ストリップにおいて、度々暴動の中心地の一つとなった。クラブはその名称に含まれている「ウィスキー」という言葉が悪影響を及ぼすのだとされ、一度名称を変えるよう命じられるなど、ロサンゼルス市から繰り返し注意を受けていた。また「ウィスク?」という名称に変えた時期もあった。おそらくはロサンゼルスにおけるロック・シーンも、このウィスキー・ア・ゴーゴーが創業した際に生まれたのだろうとされる。ロックからパンクヘヴィメタルまで、クラブは多くの音楽動向の最前線に立った。

ウィスキー・ア・ゴーゴーは多くのアーティスト、特にカリフォルニア南部を拠点に活動するバンドのキャリアに、重要な役割を果たしている。ドアーズが自身の曲、「ジ・エンド」に登場する「エディプスコンプレックス」な歌詞でその人気に火がつくまで、バーズバッファロー・スプリングフィールドラブが常連バンドとして名を連ねた他、ドアーズはしばらくの間クラブの専属バンドを務めた。またフランク・ザッパが「マザーズ・オブ・インベンション」でレコード契約を獲得したのも、このクラブで行ったライブ・パフォーマンスが元である。ジミ・ヘンドリックスサム・アンド・デイヴが主演を行った際にジャム・セッションを行うため訪れており、オーティス・レディングは自身のアルバム「ライブ・アット・ザ・ウィスキー」を1966年にウィスキー・ア・ゴーゴーで録音した。タートルズはシングル「ハッピー・トゥゲザー」を演奏し大ヒットを記録するが、この曲を編曲したベーシスト、チップ・ダグラスがモンキーズのギタリスト、マイク・ネスミスにモンキーズのプロデューサーにならないかと誘われ、メンバーを一人失うことになってしまった(チップはそれから1年後にプロデューサーとしてタートルズへ戻る)。時折ニール・ダイヤモンドもここでライブを行った。

更にキンクスザ・フーレッド・ツェッペリンロキシー・ミュージックオアシスと、多くのイギリスのバンドがウィスキー・ア・ゴーゴーで主演を行った。1970年代後半には、ウィスキー・ア・ゴーゴーがニュー・ウェイヴの台頭やパンク・ロック・ムーヴメントの中心となり、ラモーンズディクテイターズミスフィッツブロンディトーキング・ヘッズエルヴィス・コステロXTCジャムらが上演する中、ジャームズ(ウィスキー・ア・ゴーゴーでアルバムを収録)、ランナウェイズXモトリー・クルーヴァン・ヘイレンなど、様々な地元のバンドが頻繁に演奏を行った。

しかしウィスキー・ア・ゴーゴーはパンク・ロックの流行が衰えた際に苦境を迎え、一度1982年に閉鎖を余儀なくされた。その後1986年に、興行者やバンドが借りることのできる場として営業を再開した。内部に設けられた少数のブースは区分けされたままであったが、内部のほとんどは観客達が立って演奏を聴かなければならない程、むきだしで椅子のない空間へと改装された。こうして国内の不況に反して、ガンズ・アンド・ローゼズメタリカを含む多くのハードロックメタルバンドを、1980年代中に輩出する事となった。

1990年代初頭には、サウンドガーデンニルヴァーナマッドハニーメルヴィンズ7イヤー・ビッチを含み、後に「グランジのゴッドファーザー」という肩書きを与えられる、シアトルを拠点とした多くのミュージシャン達がこのウィスキー・ア・ゴーゴーで演奏を行っている。

関連項目 編集

参考 編集

以下は翻訳元の英語版(w:en:Whisky a Go Go)からの参考リンクである。

外部リンク 編集