ウィリアム・パトリック・フレーザーWilliam Patrick Fraser , 1964年5月26日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

ウィリー・フレーザー
Willie Fraser
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州ニューヨーク
生年月日 (1964-05-26) 1964年5月26日(59歳)
身長
体重
183 cm
94 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1985年 MLBドラフト1巡目(全体15位)でカリフォルニア・エンゼルスから指名
初出場 MLB / 1986年9月10日
NPB / 1996年4月28日
最終出場 MLB / 1995年9月29日
NPB / 1998年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴 編集

アメリカ時代 編集

1985年MLBドラフト1巡目でカリフォルニア・エンゼルスに入団。1986年9月10日、メジャーデビュー。1987年から1988年にかけては2年連続で二桁勝利を挙げている。

1991年トロント・ブルージェイズに移籍したが、同年シーズン途中にセントルイス・カージナルスへ移籍した。1992年1993年はメジャー昇格出来ず、1994年フロリダ・マーリンズで3年ぶりにメジャー昇格を果たした。

プロ入り以降10数回もの転居を繰り返し、年齢的にMLBで先発入りの可能性が低下してきた事から1995年の春先にNPBのヤクルト入団テストを受験[1]。しかしヤクルトには同時期に受験したテリー・ブロスが採用され[1]、自身はモントリオール・エクスポズでプレーしている。

オリックス時代 編集

オリックス・ブルーウェーブから投手陣の保険として[1]オファーを受け、1996年4月3日に契約金、年俸合わせて6,000万円(推定)で入団契約を結んだ[2]。このうち年俸は3,000万円[3]ないし4,000万円[1]だったといわれる。初先発となった5月3日の対ダイエー戦では2回以降毎回の7四球を出した上に8盗塁を許して6回途中に降板したが、相手の拙攻に助けられて勝利投手となった[4]。この試合後中西太コーチの助言などに従ってモーションを改良し、続く5月15日の対近鉄戦では1盗塁のみにとどめて連勝を挙げる[5]。勝ち運はあったが投球内容は芳しく無く5月に1ヶ月ローテーションに入ってだけで二軍落ちした。

オールスター明けから一軍復帰してからは投球内容も安定し、9月29日の対日本ハム戦まで負けなしの8連勝を記録し[6]金田政彦豊田次郎とともに後半戦の先発ローテーションを支えてチームの優勝に貢献[7]。9月には4勝0敗、防御率1.89の成績で月間MVPを受賞している[8]巨人との日本シリーズでは第2戦で先発し、7回0/3をわずか70球で被安打2、無失点に抑える好投[9]で勝ち投手になった。

年俸が7,700万円(推定)と大幅に増した[10]1997年キャンプの段階から仰木彬監督にローテーションの中心としての期待され[11]開幕投手に指名されたものの二日連続の雨によって先発が流れている[12]。1勝4敗と不振のため5月中旬から1ヶ月間二軍落ちを経験した[13]が、後半戦で6勝を挙げて2年連続の二桁勝利を達成した。

1998年オープン戦で好調だったものの登板予定日に雨が続き、そのまま開幕から2週間ローテーションを飛ばされている[14]。不振もあって7月にはマーク・ミムズが入団し[15]、9月以降はマークと入れ替わる形でリリーフに回った。同シーズン終了後の10月7日退団。

現在はロサンゼルス・ドジャースのスカウトを務めている。

プレースタイル・人物 編集

大きくクロスステップする投球フォームが特長で、最速140km/h台前半ながら打者の手元で小さく変化するストレートを投げていた[16]。さらにチェンジアップカーブで緩急をつけ[13]、縦のスライダーフォークボールも組み合わせて同じ球種を2球続けることはほとんどなかったという[13]

オリックスでは常に中嶋聡とバッテリーを組み[13]、テンポが早くストライクの先行する投球スタイルを持ち味としていた[17]。来日当初は制球難に苦しんだが、日本の野球に慣れてからは本領を発揮し[7]、制球も改善された[3]

目つきが鋭く口ひげを蓄える強面の風貌だったが繊細な性格で、試合前はブルペンに閉じこもってペーパーバックを読みふける事もあったという[9]ミステリを好み、読書しながら地下鉄グリーンスタジアムに通勤していた[1]

1998年7月5日の対近鉄戦の7回表1アウト1塁、12対3と近鉄リードの場面で、近鉄の大村直之が3塁線にセーフティバントを成功させた。敗戦処理で登板し、かつ気温35℃を超える状況での野球の不文律に反するプレーにフレーザーは激怒し、その後中村紀洋に報復死球を与えた。中村は激昂し、フレーザーに詰め寄り乱闘騒ぎになった[18]

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1986 CAL 1 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 20 4.1 6 0 1 0 0 2 0 0 4 4 8.31 1.62
1987 36 23 5 1 1 10 10 1 -- .500 744 176.2 160 26 63 3 6 106 12 1 85 77 3.92 1.26
1988 34 32 2 0 0 12 13 0 -- .480 861 194.2 203 33 80 7 9 86 12 6 129 117 5.41 1.45
1989 44 0 0 0 0 4 7 2 -- .364 375 91.2 80 6 23 4 5 46 5 0 33 33 3.24 1.12
1990 45 0 0 0 0 5 4 2 -- .556 315 76.0 69 4 24 3 0 32 1 0 29 26 3.08 1.22
1991 TOR 13 1 0 0 0 0 2 0 -- .000 123 26.1 33 4 11 2 3 12 2 0 20 18 6.15 1.67
STL 35 0 0 0 0 3 3 0 -- .500 210 49.1 44 9 21 3 3 25 4 0 28 27 4.93 1.32
'91計 48 1 0 0 0 3 5 0 -- .375 333 75.2 77 13 32 5 6 37 6 0 48 45 5.35 1.44
1994 FLA 9 0 0 0 0 2 0 0 -- 1.000 63 12.1 20 1 6 3 0 7 2 0 9 8 5.84 2.11
1995 MON 22 0 0 0 0 2 1 2 -- .667 114 25.2 25 6 9 1 3 12 2 0 17 16 5.61 1.32
1996 オリックス 18 15 1 1 0 10 2 0 -- .833 411 99.2 88 9 37 3 2 51 0 1 36 34 3.07 1.25
1997 24 21 1 1 0 10 9 0 -- .526 519 121.0 118 17 46 0 4 65 0 0 62 59 4.39 1.36
1998 24 16 1 0 0 5 5 1 -- .500 476 108.2 126 10 41 3 3 36 5 2 60 57 4.72 1.54
MLB:8年 239 57 7 1 1 38 40 7 -- .487 2825 657.0 640 89 238 26 29 328 40 7 354 326 4.47 1.34
NPB:3年 66 52 3 2 0 25 16 1 -- .610 1406 329.1 332 36 124 6 9 152 5 3 158 150 4.10 1.38
  • 各年度の太字はリーグ最高

表彰 編集

記録 編集

背番号 編集

  • 46 (1986年)
  • 52 (1986年)
  • 27 (1987年 - 1991年途中)
  • 46 (1991年途中 - 同年終了)
  • 44 (1994年)
  • 49 (1995年)
  • 19 (1996年 - 1998年)

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 朝日新聞、1996年10月16日付朝刊、P.33
  2. ^ 読売新聞、1996年4月4日付朝刊、P.20
  3. ^ a b 朝日新聞、1996年8月18日付朝刊、P.17
  4. ^ 読売新聞、1996年5月4日付朝刊、P.19
  5. ^ 読売新聞、1996年5月16日付朝刊、P.19
  6. ^ 読売新聞、1996年9月30日付朝刊、P.19
  7. ^ a b 毎日新聞、1996年9月25日付朝刊、P.15
  8. ^ パ・リーグ BLUE BOOK 月間MVP
  9. ^ a b 読売新聞、1996年10月21日付朝刊、P.14
  10. ^ 毎日新聞、1997年2月27日付朝刊、P.25
  11. ^ 読売新聞、1997年2月7日付朝刊、P.19
  12. ^ 朝日新聞、1997年6月28日付朝刊、P.27
  13. ^ a b c d 読売新聞、1997年6月28日付朝刊、P.17
  14. ^ 朝日新聞、1998年4月19日付朝刊、P.19
  15. ^ 読売新聞、1998年7月26日付朝刊、P.16
  16. ^ 読売新聞、1996年10月21日付朝刊、P.15
  17. ^ 毎日新聞、1997年6月28日付朝刊、P.25
  18. ^ 久保田龍雄 (2020年4月5日). “「日本の野球なんて認めねぇ…」セーフティバントに“ブチ切れた”助っ人”. AERA. pp. 2. https://dot.asahi.com/articles/-/92644 2020年4月6日閲覧。 

関連項目 編集

外部リンク 編集