エドワード・"エディ"・マッカイ・チーバーJr.Edward "Eddie" McKay Cheever, Jr.1958年1月10日 - )はアメリカ出身のカーレーサー。元F1CARTIRLドライバー。2008年現在、アメリカ人のF1最多出走ドライバーである。F1時代はエディ・チーバーと、またアメリカに戻ってからは、エディ・チーバーJr.と呼ばれることが多い。1998年インディ500をチームオーナー兼ドライバーとして制している。また、弟のロス・チーバーは日本でも活躍したドライバーで、甥のリチャード・アンティヌッチ英語版、息子のエディ・チーバー3世英語版ヨーロッパを中心に活躍しているドライバーである。

エディ・チーバー
基本情報
フルネーム エドワード・マッカイ・チーバーJr.
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 同・アリゾナ州フェニックス
生年月日 (1958-01-10) 1958年1月10日(66歳)
F1での経歴
活動時期 1978,1980-1989
所属チーム '78 セオドール
'78 ヘスケス
'80 オゼッラ
'81 ティレル
'82 リジェ
'83 ルノー
'84-'85 アルファロメオ
'86 ローラ
'87-'89 アロウズ
出走回数 143 (132スタート)
優勝回数 0
表彰台(3位以内)回数 9
通算獲得ポイント 70
ポールポジション 0
ファステストラップ 0
初戦 1978年アルゼンチンGP
最終戦 1989年オーストラリアGP
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プロフィール 編集

カート/F3時代 編集

アリゾナ州フェニックス出身。幼少時にイタリアローマに移住し、そこでレーシングカートでレースキャリアをスタートさせる。カートでチャンプ獲得後はフォーミュラ3に参戦。F3では同じアメリカ人で、後に同じくF1に参戦し、インディ500も制したダニー・サリバンとコンビを組み、またフォーミュラ2ではマクラーレン参入前のロン・デニスのチーム、プロジェクト4で走っている。

F1時代 編集

1978年、弱冠20歳でセオドールから開幕2戦にエントリーするも、共に予選落ちし、ケケ・ロズベルグに交代させられる。ヘスケスからエントリーした翌3戦目の南アフリカで初めて予選を通過するが、この年の決勝レースはこれ1戦のみとなる。また翌年はブランクをあけることになる。

 
ティレル時代(1981年オランダグランプリ

1980年、オゼッラから初めてフル参戦を果たすが、4戦予選落ち、完走1戦のみに終わる。活躍するのはティレルに移籍した1981年から。開幕戦母国アメリカで初入賞を5位で果たすと計5戦に入賞、10ポイントを上げる。さらにリジェに移籍した1982年には入賞は4戦に減るが、母国での2位表彰台を含む3回の表彰台を獲得し、翌1983年にルノーに抜擢される。

 
アルファロメオ時代(1984年アメリカグランプリ

ルノーでは、アラン・プロストのチームメイトとなり、4度の表彰台を含む22ポイントでランキングベストの7位に食い込む。しかしルノーでの生活も1年で終わり1984年・1985年はアルファロメオに在籍。アルファロメオの戦闘力不足でもあり、この2年間での成績は移籍初戦の4位入賞のみであった。

1986年はカール・ハース率いるハース・ローラから母国アメリカのみスポット参戦。1987年からは中堅チームのアロウズに3年間在籍し、1989年アメリカグランプリでは3位表彰台を獲得するが、目立った成績を上げることはできず、1989年末で母国アメリカへと戻ることになる。

CART/IRL時代 編集

 
ラグナ・セカのコークスクリューを駆け降りるチーバー(1991年)

その後はCARTチップ・ガナッシ・レーシングのCART最初のドライバーとして参戦。CARTとIRLが分裂した1996年にはIRLへ移籍、その年のインディ500では決勝ファステストラップのトラックレコード(236.103mph/379.971km/h)を樹立した。同年後半には自らのチームを立ち上げ、IRLでの参戦を継続する。

1998年にはインディ500を制し、またその後は参戦台数中1、2台しか採用していなかった日産インフィニティエンジンで参戦を続けたが、インフィニティが撤退した2002年限りで第一線からは退き、その後はチームオーナーに専念しつつ、インディ500を中心としたスポット参戦や、グランプリマスターズにも参加(シルバーストン大会では優勝)している。

エピソード 編集

  • F1での予選でのこと。チーバーがアタックをかけていると、目の前を横切るものがあった。避けきれずヒットしてしまい、ピットへ戻ると彼は沈み込んでしまった。ヒットしたのは野生のウサギであり、不可抗力とは言え命を奪ってしまったことに心を痛めていた。
  • 大柄な体格だがベジタリアンであった。
  • 1989年のアロウズのニューマシンが自身の体型に合わず、乗り降りには相当苦労していた。取り囲むカメラマンなどに向かって、「お前ら!俺は真面目にやってるんだぞ!」と怒る場面もあった。尚、同年の開幕戦であったブラジルGPではレース中に足が痺れてしまい、リタイア後にコクピットを降りると倒れ込んでしまう場面も見られた。
  • 弟のロスが日本で活躍していた当時、エディ自身は弟が日本で何のレースに参加しているか全く知らなかったという。
  • F3に参戦する際、まだ17歳であった年齢を1歳詐称し18歳としていた。
  • 30歳の頃から既に白髪が目立っていた。
  • 1998年のインディ500で優勝した際に、勝者の伝統である「Winner's Milk」を表彰台でボトル2本も飲み干した[1]。 ただ本人は後年のインタビューで「実はミルクを受け付けない体質なんだよ。だから、優勝してから1週間ぐらいお腹の調子がおかしかったし、口にミルクの味が残ってしまって大変だった(笑)。」と語っている[2]

レース戦績 編集

ヨーロッパ・フォーミュラ2選手権 編集

エントラント シャーシ エンジン 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
1976年 プロジェクト・フォー・レーシング マーチ・752 ランチア-フェラーリ HOC
DNQ
9位 10
ハート・420R THR
4
VAL
DSQ
SAL
Ret
PAU
Ret
HOC
Ret
ROU
Ret
MUG EST
5
マーチ・762 PER
3
ラルト・RT1 NOG
8
HOC
15
1977年 BMW SIL
7
THR
2
HOC
Ret
NÜR
1
VAL
3
PAU
Ret
MUG
17
ROU
1
NOG
5
PER
Ret
MIS
2
EST
3
DON 2位 40
1978年 マーチ・782 THR
4
HOC
Ret
NÜR
3
PAU
5
MUG
7
VAL
Ret
ROU
2
DON
Ret
NOG
9
PER
2
MIS
6
HOC
Ret
4位 22
1979年 オゼッラ・スクーデリア・コルセ オゼッラ・FA2/79 SIL
1
HOC
5
THR
Ret
NÜR
8
VAL
Ret
MUG
Ret
PAU
1
HOC
Ret
ZAN
1
PER
5
MIS
6
DON
7
4位 32

全日本F2選手権 編集

チーム シャーシ エンジン 車番 1 2 3 4 5 6 7 順位 ポイント
1979年 佐川急便 スピードスターレーシング マーチ・792 BMW 22 SUZ NIS SUZ FSW SUZ SUZ SUZ
10
-[3] -[3]

F1 編集

所属チーム シャーシ 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 WDC ポイント
1978年 セオドール TR1 ARG
DNQ
BRA
DNQ
NC
(39位)
0
ヘスケス 308E RSA
Ret
USW MON BEL ESP SWE FRA GBR GER AUT NED ITA USA CAN
1980年 オゼッラ FA1 ARG
DNQ
BRA
DNQ
RSA
Ret
USW
Ret
BEL
DNQ
MON
DNQ
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
NC
(27位)
0
FA1B ITA
12
CAN
Ret
USA
Ret
1981年 ティレル 010 USW
5
BRA
NC
ARG
Ret
SMR
Ret
BEL
6
MON
5
ESP
NC
FRA
13
GBR
4
12位 10
011 GER
5
AUT
DNQ
NED
Ret
ITA
Ret
CAN
12
CPL
Ret
1982年 エキュリータルボジタン (リジェ) JS17 RSA
Ret
BRA
Ret
USW
Ret
SMR BEL
3
DET
2
CAN
10
12位 15
JS19 MON
Ret
NED
DNQ
GBR
Ret
FRA
16
GER
Ret
AUT
Ret
SUI
NC
ITA
6
CPL
3
1983年 ルノー RE30C BRA
Ret
USW
13
7位 22
RE40 FRA
3
SMR
Ret
MON
Ret
BEL
3
DET
Ret
CAN
2
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
4
NED
Ret
ITA
3
EUR
10
RSA
6
1984年 アルファロメオ 184T BRA
4
RSA
Ret
BEL
Ret
SMR
7
FRA
Ret
MON
DNQ
CAN
11
DET
Ret
DAL
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
13
ITA
9
EUR
Ret
POR
17
16位 3
1985年 185T BRA
Ret
POR
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
CAN
17
DET
9
FRA
10
NC
(26位)
0
184TB GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
BEL
Ret
EUR
11
RSA
Ret
AUS
Ret
1986年 ローラハース THL-1 BRA ESP SMR MON BEL CAN DET
Ret
FRA GBR GER HUN AUT ITA POR MEX AUS NC
(32位)
0
1987年 アロウズ A10 BRA
Ret
SMR
Ret
BEL
4
MON
Ret
DET
6
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
8
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
6
ESP
8
MEX
4
JPN
9
AUS
Ret
10位 8
1988年 A10B BRA
8
SMR
7
MON
Ret
MEX
6
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
11
GBR
7
GER
10
HUN
Ret
BEL
6
ITA
3
POR
Ret
ESP
Ret
JPN
Ret
12位 6
A10 AUS
Ret
1989年 A11 BRA
Ret
SMR
9
MON
7
MEX
7
USA
3
CAN
Ret
FRA
7
GBR
DNQ
GER
12
HUN
5
BEL
Ret
ITA
DNQ
POR
Ret
ESP
Ret
JPN
8
AUS
Ret
11位 6

(key)

ル・マン24時間レース 編集

チーム コ・ドライバー 使用車両 クラス 周回 総合順位 クラス順位
1980年   ジョリークラブ-ランチア コルセ   カルロ・ファセット
  マルティーノ・フィノット
ランチア・ベータ・モンテカルロ Gr.5 272 19位* 2位*
1981年   マルティニ レーシング   ミケーレ・アルボレート
  カルロ・ファセット
Gr.5 322 8位 2位
1986年   シルクカット・ジャガー
  トム・ウォーキンショー・レーシング
  デレック・ワーウィック
  ジャン=ルイ・シュレッサー
ジャガー・XJR-6 C1 239 DNF DNF
1987年   ラウル・ボーセル
  ヤン・ラマース
ジャガー・XJR-8 LM C1 325 5位 5位

* チーバーはDNSとして記載された。

BMW・M1・プロカー・チャンピオンシップ 編集

チーム 1 2 3 4 5 6 7 8 9 順位 ポイント
1979年 オゼッラ・スクーデリア・コルセ ZOL MCO
8
DIJ SIL HOC ÖST ZAN MNZ 24位 3
1980年 GSチーム DON AVU MCO NOR BRH HOC ÖST
Ret
ZAN IMO NC 0

インディアナポリス 500 編集

シャーシー エンジン スタート フィニッシュ チーム
1990年 ペンスキー シボレー 14位 8位 チップ・ガナッシ・レーシング
1991年 ローラ 10位 31位
1992年 フォード 2位 4位
1993年 ビュイック 33位 16位 チーム・メナード
1994年 メナード 11位 8位
1995年 フォード 14位 31位 A.J.フォイト・エンタープライズ
1996年 メナード 4位 11位 チーム・メナード
1997年 Gフォース オールズモビル 11位 23位 チーム・チーバー
1998年 ダラーラ 17位 1位
1999年 インフィニティ 16位 18位
2000年 10位 5位
2001年 26位 25位
2002年 6位 5位
2006年 ホンダ 19位 13位 チーバー・レーシング

脚注 編集

  1. ^ 『Racing On』No.271 ニューズ出版、1998年、p.116。
  2. ^ 『Racing On』No.327 ニューズ出版、2000年、p.31。
  3. ^ a b JAF(日本自動車連盟)ライセンスではない外国ライセンスドライバーはポイント対象外。

関連項目 編集

外部リンク 編集