エメリック・イェネイ

ルーマニアのサッカー選手

エメリック・イェネイルーマニア語: Emeric Jenei, ハンガリー語: Jenei Imre(イェネイ・イムレ); 1937年3月22日 - )は、ルーマニアアラド県出身の元サッカー選手。元サッカー指導者。選手時代のポジションは守備的ミッドフィールダー[1]ステアウア・ブカレストを率いて1986年のUEFAチャンピオンズカップを制覇した。ヴィクトル・ピツルカミルチェア・ルチェスクアンゲル・ヨルダネスクと並んでルーマニアの偉大なサッカー指導者の1人と見られている[2]。2008年3月25日、トライアン・バセスク大統領から表彰された。

エメリック・イェネイ
名前
ラテン文字 Emerich Jenei
基本情報
国籍  ルーマニア
生年月日 (1937-03-22) 1937年3月22日(87歳)
出身地 アラド県アグリシュ・ミク
身長 176cm[1]
体重 72kg[1]
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1955-1956 ルーマニアの旗 フラムラ・ロシエ・アラド 21 (2)
1957-1969 ルーマニアの旗/ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト 254 (7)
1969-1971 トルコの旗 カイセリスポル 30 (4)
代表歴
1959-1964 ルーマニアの旗 ルーマニア 12 (0)
監督歴
1972-1973 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト コーチ
1975-1978 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト
1978-1979 ルーマニアの旗 FCビホル・オラデア
1981-1982 ルーマニアの旗 FCMトゥルゴヴィシュテ
1983-1984 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト
1984-1986 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト
1986-1990 ルーマニアの旗/ルーマニアの旗 ルーマニア
1991 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト
1992-1993 ハンガリーの旗 ハンガリー
1993 ハンガリーの旗 パルマラトFC
1993-1994 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト
1995-1996 ギリシャの旗 パニオニオス
1996 ルーマニアの旗 ウニヴェルシタテア・クライオヴァ
1998-2000 ルーマニアの旗 ステアウア・ブカレスト
2000 ルーマニアの旗 ルーマニア
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴 編集

アラド県で生まれた彼はリーガ1のアラドでデビューした。1957年にステアウア・ブカレストに移籍し1969年まで同チームでプレーした。ステアウアでは1959-60シーズン, 1960-61シーズン, 1967-68シーズンに国内選手権に優勝した。その後トルコカイセリスポルでプレーし1971年に現役を引退した。また1959年から1964年までルーマニア代表として12試合に出場し[3]東京オリンピックでは準々決勝で敗れたものの、チームは5位となった[3]

現役引退後、1972-73シーズンよりステアウアに戻りコーチとなった彼は1年後には監督に就任、チーム成績は5位であった。1976年に監督就任後初優勝を果たし、1977年にも準優勝、1978年に優勝させたがシーズン終了後、ゲオルゲ・コンスタンティンに交代させられた。

1978-79シーズン、オラデアFCビホル・オラデアを指揮したが最下位に終わった。1981年、FCMトゥルゴヴィシュテを指揮し、1982年にステアウアの監督として復帰したが2年後国内選手権を逃した彼はチームを追い出されたが4ヵ月後復帰した[3]

1985年の国内選手権を制し翌シーズンのUEFAチャンピオンズカップ出場権を得たステアウア・ブカレストは翌年3月FCバルセロナを破り優勝した[2]ミルチェア・ルチェスクと共にルーマニア代表監督となった彼はノルウェー代表戦で監督として国際試合デビューを果たした。ルチェスクはまもなく解任され彼が唯一の監督になった。UEFA欧州選手権1988への出場は逃したものの1990 FIFAワールドカップでルーマニアを20年ぶりのワールドカップに出場させた[2]。1986年8月から1990年6月までの間に40試合で代表を率い、1987年にはスペイン、1988年にはイタリアを破った。

ワールドカップ終了後、1991年4月ステアウアに復帰したが同年12月に解任され1992年から1993年はハンガリー代表監督を務めた。しかし日本で行われたキリンカップサッカーでは優勝したものの結果を出せずに解任されフェレンツ・プスカシュが後任監督となった。

1993年8月、5度目となるステアウアの監督に復帰、1994年に国内選手権優勝を果たした。ギリシャのパニオニオスFCを経て1996年にウニヴェルシタテア・クライオヴァの監督に就任したがわずか10試合で解任された。その後1998年に6度目となるステアウアの監督に就任、2000年まで務めた[3]。2000年、UEFA EURO 2000の予選の最中、ヴィクトル・ピツルカルーマニア代表監督がゲオルゲ・ポペスクゲオルゲ・ハジと対立し解任され代表監督に就任した。本大会でもチームをベスト8に導いた。

2000年6月監督業から引退した。

タイトル 編集

選手時代 編集

ステアウア・ブカレスト
U-19ルーマニア代表

指導者時代 編集

ステアウア・ブカレスト

脚注 編集

  1. ^ a b c Emeric JENEI”. Romanian Soccer. 2014年11月23日閲覧。
  2. ^ a b c La multi ani, Emerich Jenei!”. LPF (2014年3月22日). 2014年11月23日閲覧。
  3. ^ a b c d Sebastian Perju, Adrian Epure (2010年8月21日). “Ienei, lordul din iarbă”. Adevărul. 2014年11月23日閲覧。

外部リンク 編集