オスカー・ペティフォード

オスカー・ペティフォード (Oscar Pettiford1922年9月30日 - 1960年9月8日)はアメリカ合衆国のジャズ・ダブルベース奏者・チェロ奏者・作曲家。ビバップ奏法での最初期の演奏者の1人。

オスカー・ペティフォード。右側はジュニア・ラグリン(1946年)

伝記 編集

 
オクラホマ州
 
1946年のオスカー

オクラホマ州オクマルギ英語版出身。母はチョクトー族、父はチェロキー族とアフリカ系アメリカ人の子供として生まれた。[1]

家族のバンドで歌い踊って育ったが、12歳でピアノ、14歳でダブルベースを始める。他人のベース演奏が気に入らず、独自の奏法を始めた。ミルト・ヒントンなど、まわりからは称賛されたが、1941年、「これじゃ食えない」と思い引退。数か月後、ヒントンに会い音楽に連れ戻された。

1942年、Charlie Barnetバンドに加入、1943年、コールマン・ホーキンスと『The Man I Love』を録音し、一般の耳目を集める。この時期アール・ハインズベン・ウェブスターとも録音。

1943年にディジー・ガレスピーとバップ・バンドを始める。1945年、ホーキンスとハリウッドに行き、ジャズのサントラで有名なミステリー映画『The Crimson Canary』に出演した。

1945~1948年はデューク・エリントン楽団で、1949年にはウディー・ハーマン楽団で演奏。1950年代は自身のバンドで活動。リーダーとしてキャノンボール・アダレイを発掘した。

音楽性 編集

 
ガレスピーを含むペティフォード楽団のworried life bluesシングル1945年

ジャズのチェロ・ソロ演奏の創始者とされる。チェロに転向したきっかけは1949年に腕を骨折し、ベースが弾けなかったのでチェロを試したという。翌年チェロでは初録音を行った。

1950年代にDebut、Bethlehem、ABC Paramountなどに録音を残している。

1958年にデンマークコペンハーゲンに移住してからはヨーロッパでも録音を行った。

チャールス・ミンガスとともに、ベース奏者のバンド・リーダーとしては最も録音が多い。

1960年にコペンハーゲンでポリオに似た感染症により、38歳の若さで死去。

盤歴 編集

リーダー作品 編集

サイドマン作品 編集

参照 編集

リンク 編集