カルロス・ミラバルCarlos Mirabal, 1973年4月24日 - )は、アメリカ合衆国ニュージャージー州バーゲン郡出身のプロ野球選手投手)。右投両打。台湾プロ野球時代の登録名は「馬來寶」。

カルロス・ミラバル
Carlos Mirabal
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニュージャージー州バーゲン郡
生年月日 (1973-04-24) 1973年4月24日(50歳)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席 右投両打
ポジション 投手
プロ入り 1996年
初出場 CPBL / 1999年3月18日
NPB / 2000年4月1日
最終出場 CPBL / 1999年10月21日
NPB / 2005年4月8日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴 編集

アメリカ・台湾時代 編集

バーゲン・カウンティ・テクニカル高校を経て、1996年にアメリカの独立リーグであるノース・アトランティック・リーグアルトゥーナ・レイルキングスにてプロとしてのキャリアをスタートする。

1997年1998年TML嘉南勇士1999年CPBL和信ホエールズでプレーした。和信在籍時の1999年には、アレックス・カブレラとチームメイトだったが、性格が合わずお互いに不仲を公言するほどの犬猿の仲だった。2002年にはカブレラに死球をぶつけたことがきっかけで乱闘騒ぎを起こしている。

日本ハム時代 編集

2000年NPB日本ハムファイターズに入団。前年に抑えを任されていたエリック・シュールストロムが退団したことで不在となっていた守護神の期待を受け、150kmを超えるストレートとナックルカーブを武器に48試合に登板し、1勝3敗19セーブの数字を残したが、走者を背負うと不安定になる弱点があり、絶対的な信頼は得られなかった。

2001年も抑えとして起用され2勝6敗18セーブとまずまずの数字を残すも、依然抑えとしては不安定だったことやルーキーの井場友和を抑えとして育成する方針から終盤に先発に転向、最後の登板で5回無失点と結果を残した。

2002年から本格的に先発投手へ転向。後半戦はケガで棒に振るも、エース金村曉に次ぐチーム2位の9勝を挙げた。また、同年4月10日の対千葉ロッテマリーンズ戦では、8回終了まで一人の走者も許さぬ好投を見せるが、9回の先頭打者・吉鶴憲治に安打され、外国人投手としては初となる完全試合を逃した。また、この試合で9回まで投げた球数はわずか80球であり、80球以内での完投は1969年坂井勝二ロッテオリオンズ)以来、パ・リーグ史上17人目であり、両リーグを通じても1977年江本孟紀阪神タイガース)以来25年ぶりであった。

2003年はケガで出遅れた金村に代わり開幕投手を務め、シーズンではリーグ2位の16勝(11敗)を挙げチームの勝ち頭となる。ただし、自責点と防御率がリーグワーストであった。

2004年は前半は不振に喘いだが、後半に巻き返し11勝をマークした。プレーオフ第1ステージ第2戦に先発すると8回まで1失点に抑え、9回に3失点し完投は逃したが8回2/3を4失点で勝利投手となった。

2005年にも開幕投手に指名されたが、故障により勝ち星を挙げることができないまま3試合のみの登板に終わりシーズン途中で解雇された。

日本ハム退団後 編集

2006年から2008年まで、独立リーグアトランティックリーグに加盟するニューアーク・ベアーズでプレーしたのを最後に一度引退[1]

2015年に独立リーグのカナディアン・アメリカン・リーグで現役復帰。そこでのプレーしているとドイツのブンデス・リーガ1部のケルン・カージナルスからオファーがあり、2018年には監督兼選手としてプレーした[2]。その後はプエルトリコで投手兼コーチとしてもプレーした[3]

2018年11月に結成された「一般社団法人 日本プロ野球外国人OB選手会」(JRFPA)で代表理事を務める[4]

2019年8月30日から、四国アイランドリーグplus徳島インディゴソックスで、シーズン終了まで臨時コーチを務めた[5][6]

その後はニューヨークに在住し、子供からプロレベルの選手たちまで向けて、野球とソフトボールのコーチ活動を行っていた。また、2020年5月に行われたパシフィック・リーグからのインタビューに対しては現役としてのプレー復帰も目指していたことを明かした[7]

2022年独立リーグフロンティアリーグで再び現役復帰。同年と2023年に1試合ずつ登板した[8]

選手としての特徴・人物 編集

打たせて取るクレバーな投球[9]だが、やや熱くなりすぎて一本調子になることが課題[10]だった。

日本ハム時代の背番号00は、2000年に加入したことと、防御率0.00を目指したことから。ミラバルの退団後に日本ハムで背番号00を着用した選手は現れず、かつ日本ハムは2009年以降、背番号0および00を使用しない方針を採っているため、ミラバルは日本ハムで背番号00を着用した最後の選手である。

詳細情報 編集

年度別投手成績 編集





















































W
H
I
P
1999 和信 43 2 0 0 0 2 1 13 0 .667 356 91.2 68 1 20 0 2 62 3 0 23 19 1.87 0.96
2000 日本ハム 48 0 0 0 0 1 3 19 -- .250 198 49.1 40 7 16 2 2 31 0 3 21 20 3.65 1.14
2001 51 1 0 0 0 2 6 18 -- .250 242 55.0 62 7 16 1 2 43 1 0 22 21 3.44 1.42
2002 18 18 4 1 1 9 6 0 -- .600 529 125.2 111 19 42 3 2 77 0 0 52 47 3.37 1.22
2003 31 31 3 1 0 16 11 0 -- .593 859 193.2 232 27 70 2 6 103 6 0 115 100 4.65 1.56
2004 29 26 2 0 0 11 9 0 -- .550 717 160.2 183 24 48 2 13 89 4 0 95 86 4.82 1.44
2005 3 3 0 0 0 0 3 0 0 .000 82 16.1 22 2 8 0 3 10 0 0 16 14 7.71 1.84
CPBL:1年 43 2 0 0 0 2 1 13 0 .667 356 91.2 68 1 20 0 2 62 3 0 23 19 1.87 0.96
NPB:6年 180 79 9 2 1 39 38 37 0 .506 2627 600.2 650 86 200 10 28 353 11 3 321 288 4.32 1.42
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 編集

CPBL
  • 最優秀防御率:1回 (1999年)

表彰 編集

NPB
  • 月間MVP:1回 (投手部門:2004年9月)

記録 編集

NPB

背番号 編集

  • 24 (1997年 - 1998年)
  • 10 (1999年)
  • 00 (2000年 - 2005年)

脚注 編集

  1. ^ https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=miraba001car
  2. ^ “外国人OB選手会の代表理事就任 元ハム・ミラバルのゴールは「日本で指導者」”. Full-Count. (2018年12月17日). https://full-count.jp/2018/12/17/post267645/ 2022年2月1日閲覧。 
  3. ^ “ハムOBミラバル氏、46歳も最速144キロ 札幌での球団人気に「本当に嬉しい」”. Full-Count. (2019年4月28日). https://full-count.jp/2019/04/28/post358230/ 2022年2月1日閲覧。 
  4. ^ 「みんな日本に恩返しをしたいと思っている」日本プロ野球外国人OB選手会はなぜ生まれたか
  5. ^ カルロス・ミラバル氏 徳島IS 臨時投手コーチ就任のお知らせ - 四国アイランドリーグplusニュースリリース(2019年8月30日)
  6. ^ “カルロス・ミラバル(元北海道日本ハム) 徳島インディゴソックス臨時投手コーチとして若手投手才能開花へ!”. 高校野球ドットコム. (2019年9月1日). https://www.hb-nippon.com/news/36-hb-bsinfo/38181-bsinfo20190901002 2022年2月1日閲覧。 
  7. ^ カルロス・ミラバル(インタビュアー:高木隆)「We Are Pacific! 外国人OB選手インタビュー カルロス・ミラバルさん 離れてもなお、ファイターズに寄せる慕情」『パ・リーグ.com』、2020年5月22日https://pacificleague.com/news/246222022年2月1日閲覧 
  8. ^ https://www.baseball-reference.com/register/player.fcgi?id=miraba001car
  9. ^ 『プロ野球選手名鑑2003』ベースボール・マガジン社、2003年、291頁。ISBN 4-583-61214-1 
  10. ^ 『プロ野球選手名鑑2001』ベースボール・マガジン社、2001年、237頁。ISBN 4-583-61131-5 

関連項目 編集

外部リンク 編集