ゲルマ(アラビア語ڨالمة(ɡelmæ)はアルジェリア北東部のゲルマ県の県都。 地中海まで65kmの距離に位置する。 ヌミディアの古代都市のカラマ英語版と同じ場所に有る。

ゲルマ

ڨالمة
ゲルマ
左上から時計回り:Souidani Boudjemmâa大通り、 県庁、市立劇場、聖Augustine場、Oued Maïz道、ローマ劇場、Bouhemdane湖
ゲルマの紋章
紋章
愛称: 
盆地の都市
ゲルマの位置
ゲルマの位置
ゲルマの位置(アルジェリア内)
ゲルマ
ゲルマ
ゲルマの位置
北緯36度27分 東経7度26分 / 北緯36.450度 東経7.433度 / 36.450; 7.433座標: 北緯36度27分 東経7度26分 / 北緯36.450度 東経7.433度 / 36.450; 7.433
アルジェリアの旗 アルジェリア
ゲルマ県
地区 ゲルマ地区
面積
 • 合計 44.74 km2
標高
256 m
人口
(2008年)
 • 合計 120,004人
 • 密度 2,700人/km2
等時帯 UTC+01 (中央ヨーロッパ時間)
郵便番号
24000
統計番号 2401
ウェブサイト www.guelma.org

歴史 編集

フェニキア~オスマン帝国 編集

 
ゲルマのローマ劇場

最初にフェニキア人が町を築き、「マラカ」と名付けた。 フェニキア語で「塩」を意味する。

共和政ローマが入植し、「カラマ」と名付け、ヌミディア属州に編入した。 キリスト教の普及と共にカラマは反映した。 聖Possidiusが5世紀に司教を務めた。

ヴァンダル族が侵入・破壊した。

東ローマ帝国が城壁を築き、アフリカ司教管区英語版に編入した。

ムスリムの入植後、都市の規模は縮小された。

オスマン帝国が統治した。

 
ゲルマ駅の前の人々(19世紀の絵葉書)

フランス植民地 編集

1836年11月10日、Bertrand Clausel将軍率いるフランス軍コンスタンティーヌからアンナバに進軍する途中で、放棄されたカラマ遺跡を発見した。 同年ゲルマ市が設置され、フランス領アルジェリアに組み込まれた。 [1]

1854年6月17日、コミューン(基礎自治体)が設置された。 ゲルマはカラマ遺跡の周辺で急速に発展した。 最初は東ローマ帝国の城壁の中が修復され、後に壁の外まで進んだ。 東西方向に鉄道も通った。

1905年、M. Joly市長時代にローマ劇場が修復された。 フランスの植民地の方針により、多くのヨーロッパ人が住んだ。

1945年5月8日、セティフ・ゲルマ虐殺英語版が起きた。

独立 編集

 
ゲルマ

1954年1962年アルジェリア戦争を経て、アルジェリアは独立した。 ヨーロッパ人ユダヤ人は退去し、シナゴーグ教会モスクに建て替えられた。 人口は急速に増加した。

地理と気候 編集

 
雪に覆われたMaouna山

ゲルマは主要な農業地帯の中心に位置する。 標高は290mで、Maouna山、Dbegh山、Houara山に囲まれる。 Seybouse川と大きなダムの灌漑によって、肥沃な土地になった。 アルジェリア北東部の交通の要衝で、沿岸部のアンナバ県エル・タルフスキクダと、内陸部のコンスタンティーヌ県・Oum El Bouagui・スーク・アフラースを結ぶ。

産業 編集

自転車、モペッド(ペダルオートバイ)、製糖、陶器、缶、セモリナ製粉が盛んである。 伝統的な編み物と陶器でも知られている。

 
温泉

スポーツ 編集

 
ゲルマ五輪競技場

3つのサッカーチームが有る。

  • Espérance Sportive de Guelma(略称:ES Guelma)(1939年~)
  • The Olympic Football Guelma(1947年~)
  • L'Ettardji Sarri Madinet Guelma(1977年~)

著名人 編集

脚注 編集

  1. ^ "Guelma," Encyclopedia Britannica; retrieved 2012-11-15.

外部リンク 編集