シャングリラ(USS Shangri-La, CV/CVA/CVS-38)は、アメリカ海軍エセックス級航空母艦で、同級空母としては12番目に就役した。エセックス級のうち艦首延長等の改修を踏まえて建造された艦は、非公式ながら「長船体型("long-hull group")[1] [2]」「タイコンデロガ級航空母艦[3]」といった呼称・分類がなされることもあるが、本艦はその中で最初に起工された。

1945年8月17日撮影
艦歴
起工 1943年1月15日
進水 1944年2月24日
就役 1944年9月15日
退役 1971年7月30日
その後 スクラップとして売却
除籍 1982年7月15日
性能諸元
排水量 27,100 トン
全長 888 ft (270.6m)
艦幅 93 ft (28.4 m)
全幅 147.5 ft (45 m)
吃水 28.7 ft (8.8 m)
機関 ウェスティングハウス製蒸気タービン4機, 4軸推進, 150,000 shp
最大速 33 ノット (61 km/h)
乗員 士官、兵員3,448名
兵装 5インチ(127 mm)連装砲4基、5インチ単装砲4基
4連装40mm機銃8基、20mm機銃46基
搭載機 90 - 100

艦名はイギリスの作家ジェームズ・ヒルトンが1933年に出版した小説『失われた地平線』の中に出てきた理想郷の名に因む。1942年のドーリットル空襲の際、ルーズベルト大統領が記者団からの質問に対し「(攻撃機の)発進地はシャングリラ」と答えたエピソードに関連している。

艦歴 編集

就役 編集

 
シャングリラの進水式

シャングリラは1943年1月15日、バージニア州ポーツマスノーフォーク海軍造船所で起工する。1944年2月24日、ジョセフィン・ドーリットル(ドーリットル空襲を指揮したジミー・ドーリットルの夫人)によって命名、進水し、1944年9月15日、ジェームズ・D・バーナー艦長の指揮下就役した。

シャングリラはノーフォークで整調訓練を行い、その後21日までトリニダードに向かって整調航海を行う。1945年1月17日にハンプトンローズを出港、大型巡洋艦グアム(USS Guam, CB-2)、駆逐艦ハリー・E・ハバード(USS Harry E. Hubbard, DD-748)と共にパナマへ向かう。三隻はクリストバルに23日到着し、24日にパナマ運河を通過する。シャングリラは1月25日にバルボアを発ち、2月4日にカリフォルニア州サンディエゴに到着する。そこで乗客と貨物、艦載機を載せ2月7日にハワイへ向かう。2月15日に真珠湾へ到着し、地上勤務パイロットの着艦訓練を行った。

第二次世界大戦 編集

4月10日にウルシー環礁に向かい十日後に到着、一泊した後駆逐艦ハガード(USS Haggard, DD-555)、ステンベル(USS Stembel, DD-644)と共に出港、ミッチャー中将率いる高速空母機動部隊に加わる。4月24日に第58.4任務部隊に加わり、第50.8任務部隊との海上燃料補給を行った。翌日シャングリラは艦載機による最初の日本軍への攻撃を行う。目標は沖大東島で、同地の無線基地を破壊した。その後沖縄に向かい戦闘偵察飛行及び第10軍への上空支援を行い、5月14日にウルシー泊地に帰還する。

ウルシー泊地でシャングリラは第2空母機動部隊の旗艦となり、ジョン・S・マッケーン中将は5月18日に中将旗を掲揚する。六日後に第58.4任務部隊はウルシーを出港し、5月28日に第58.4任務部隊は第38.4任務部隊に改称し、マッケーン中将はミッチャー中将と交代したが、シャングリラは引き続いて旗艦の任にあった。6月2日、3日に機動部隊は日本本土への空襲を開始。激烈な抵抗に遭遇したシャングリラの艦載機は戦歴の中で最大の死傷者を生じた。

6月4日、5日には台風を回避するために北西へ移動し、6月6日に艦載機による沖縄での上空掩護任務に帰還する。8日にシャングリラの航空団は再び九州を攻撃し、翌日沖縄に戻った。10日に機動部隊は沖縄からレイテ島に戻り、シャングリラは6月13日にサンペドロ湾で錨をおろした。その後7月まで乗組員の休養のため同所に停泊する。

7月1日にシャングリラはレイテから再び戦地に赴く。2日に海軍航空次官の就任宣誓式がシャングリラ艦上で行われ、海軍長官ジョン・L・サリバンが式を執り行った。その式は作戦地帯で行われた初めての式であった。8日後、シャングリラの艦載機は日本本土に対する空襲を開始し、それは終戦当日まで継続した。7月14日から15日にかけて、本州と北海道への空襲に参加し、7月18日には横須賀に停泊中の長門を爆撃した。 28日には呉空襲に参加した。

近代化 編集

 
SCB-125改装後(後方より、1957年撮影)

第二次世界大戦終結後、シャングリラはサンディエゴを母港として発着艦訓練母艦として使用ののち、ビキニ環礁でのクロスロード作戦に指揮艦として参加し、無人観測機に改造したF6Fによって爆発を観測した。その後暫く太平洋艦隊で活動していたが、大戦終結に伴う海軍の縮小に伴い、シャングリラも他の同型艦の多くと同様に予備役に編入される。1947年11月7日よりモスボール処理のうえサンフランシスコ港に繋留されたが、1951年5月7日に現役復帰する。東海岸側で数回作戦行動に参加。

1952年には攻撃空母(CVA)籍となったが、直後の11月ピュージェット・サウンド海軍造船所に入渠してSCB-27C改装を受ける。改装中、併せてSCB-125改装も受けることとなった。改装は1955年1月10日に完了し、アングルド・デッキ装着や艦首部のエンクローズド・バウ化により艦容は一変した。その後太平洋艦隊に編入され、サンディエゴを母港に太平洋艦隊で作戦行動に従事する。

1957年には再度整備工事を実施し、索敵・通信関係の近代化や機銃の撤去が行われた。また第二次台湾海峡危機で台湾海峡に展開した。

1960年3月16日に、長年在籍していたサンディエゴからフロリダ州メイポートへ移動し、大西洋艦隊に所属する事となった。移動直後には中南米諸国への親善航海を実施。その後NATO加盟国が初めて実施した大西洋での軍事演習に参加したほか、グァテマラニカラグアでの地域紛争に際しても出動している。1961年からは第6艦隊に所属して、大西洋海域を中心に活動した。

1962年から1963年のはじめにかけて、シャングリラはオーバーホールの為にニューヨークブルックリン海軍工廠に回航され、5インチ砲の撤去やレーダー機器、電気関係の更新を実施した。その後第6艦隊に復帰したが、1965年10月に駆逐艦「ニューマン・K・ペリー英語版」と衝突事故を起こし、相手の艦の乗員1名が殉職したが、自らも損傷を受け、艦内に浸水が発生した。その修理を兼ねて1965年末から1966年にかけて改装工事を実施し、着艦誘導レーダーの取り付けなどを実施した。

ベトナム戦争 編集

 
1970年2月11日撮影

1969年6月30日には対潜支援空母(CV-S)に艦籍が変更され、さらに1970年には再び太平洋艦隊へ移動となり、3月5日にメイポートを出港、3月13日3月16日にはリオデジャネイロに寄港ののち、インド洋を経由して4月4日フィリピンスービック海軍基地に到着した。補給の後ベトナム戦争参加の為ヤンキー・ステーションに移動し、11月まで作戦行動に参加した。この時は、対潜空母としてではなく攻撃空母的な扱いで使用され、戦闘機部隊を搭載した。

この間、7月には乗員の休養と整備を兼ねて横須賀海軍基地に回航され12日間入渠、また10月には、マニラ香港訪問している。

シャングリラのヤンキー・ステーションでの活動は11月に終了し、11月9日にスービック湾を出港。シドニーウェリントンに寄港し、ドレーク海峡を通過してリオデジャネイロに再寄港した後、12月16日にメイポートに到着した。

到着後、メイポート基地でモスボール化準備を実施し、その後ボストン海軍工廠に回航して本格的なモスボール化工事を開始し、作業終了した1971年7月30日付けで予備艦籍に編入された。

その後は、フィラデルフィア海軍造船所において保管されていたが、1982年7月15日付けで解体の為除籍された。艦自体はその後も暫くフィラデルフィアで繋留されていたが、1988年台湾に曳航され、現地で解体された。

シャングリラは第二次世界大戦の戦功で2つの、ベトナム戦争の戦功で3つの従軍星章を受章した[4]

関連項目 編集

脚注 編集

参考文献 編集

  • Friedman, Norman (1983). U.S. Aircraft Carriers: An Illustrated Design History. Annapolis, MD: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-739-9 
  • Raven, Alan (1988). Essex-Class Carriers. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-021-1 
  • St. John, Philip (1999). USS Essex (CV/CVA/CVS-9). Nashville, TN: Turner Publishing Company. ISBN 1-56311-492-5 
  • NavSource Online: Aircraft Carrier Photo Archive USS SHANGRI-LA (CV-38)”. 2019年6月4日閲覧。

外部リンク 編集