シロンスク公国またはシュレージエン公国ポーランド語: Księstwo śląskieドイツ語: Herzogtum Schlesien)は、中世ポーランドシロンスクに存在した公国である。1163年に創設されてまもなく、シロンスク公国群へと細かく分割される状況が生まれた。

シロンスク公国
Księstwo śląskie (ポーランド語)
Herzogtum Schlesien (ドイツ語)
Slezské knížectví (チェコ語)
ポーランド公国 1138年 - 1335年
シロンスクの国旗 シロンスクの国章
(国旗) (国章)
シロンスクの位置
シロンスク公国の位置(1172年 - 1177年)
宗教 カトリック
首都 ヴロツワフ
元首等
xxxx年 - xxxx年 不明
変遷
ボレスワフ3世の遺言状 1138年
ヴワディスワフ2世が亡命1146年
ラチブシュ分離1172年
オポーレ分離1172年
レグニツァ分離1248年
ボヘミアの一部に1335年
先代次代
ポーランド公国 ポーランド公国 シロンスク公国群 シロンスク公国群
ラチブシュ公国 ラチブシュ公国
オポーレ公国 オポーレ公国
レグニツァ公国 レグニツァ公国
ブジェク公国 ブジェク公国
ワルシャワ大司教区 ワルシャワ大司教区
ボレスワフの息子たちによるポーランドの分割相続
  シロンスク領、ヴワディスワフ2世の分領
  ウェンチツァ地方ボレスワフ3世の未亡人サロメアの寡婦領で、その死と同時に長子領に戻される
  ポモジェ、長子領の支配者の封土

概要 編集

 
1172年 - 1177年のシロンスク
 
1177年 - 1185年のシロンスク

当初はシロンスク地域ポーランド語:dzielnica śląska)と呼ばれた公国は1138年、ボレスワフ3世の遺言状によってポーランド王国の5つの主要な地域の1つとして創設された。1138年から1146年にかけて、この地域はポーランド大公ヴワディスワフ2世によって統治されたが、ヴワディスワフ2世はポーランド王国の統合のための争いに敗れると、首位の公の地位を失った。その後、シロンスクは彼の弟であるボレスワフ4世によって統治された。1163年までに、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の支援でヴワディスワフ2世の息子達はシロンスクを回復した。

ヴワディスワフ2世の息子達は公国を分割し、これがシロンスク公国群の始まりとなった。長男ボレスワフ1世は中部シロンスクと低地シロンスクを含む広い地域を保持し、ヴロツワフを首都とするヴロツワフ公国を支配した(その広大な広さから、これをシロンスク公国と誤って呼ぶことも多い)。次男のミェシュコ1世ラチブシュチェシンを分領として獲得し、ラチブシュ公国が形成された。兄弟による短期間の争いののち、オポーレを首都とするオポーレ公国も同時に成立し、ボレスワフ1世に疎んじられていたその長男ヤロスワフ(聖職者になるのを拒否した)に与えられた。ボレスワフ1世とミェシュコ1世の弟である三男コンラト1177年グウォグフを与えられ、グウォグフ公国を形成した。但し、コンラトは子の無いまま死んだため、グウォグフ公国はボレスワフ1世が併合した。

ポーランドの分裂期に、公国は世代交替が進むにつれて細かく分裂していった。公国群は14世紀にはボヘミア王国と結びつき、一部は復活したポーランド王国に再統合されたりしたが、大部分が1348年神聖ローマ帝国領邦国家となった。1526年にボヘミアがハプスブルク君主国に組み入れられると、ボヘミアとシロンスクの諸公国は徐々にオーストリアの支配を受けるようになった。

1740年プロイセンフリードリヒ2世はオーストリア領シュレージエン(シロンスク)に侵攻し、18世紀後半まで続いたシュレージエン戦争の結果、この地域の多くをプロイセン領に併合した。旧公国群の大部分は後にプロイセン領シュレージエン州に再編され、オーストリア側に残った地域は1742年、オーストリア領シュレージエン(高地・低地シュレージエン公国)とされた。ポーランド領内に残っていた公国群の一部は、18世紀末のポーランド分割の結果、プロイセンとオーストリアに併合された。オーストリア領シュレージエンは1918年まで存続し、第一次世界大戦後にポーランド第2共和国チェコスロヴァキアとの間で分割された。

関連項目 編集