ジェイレン・アンソニー・ローズJalen Anthony Rose1973年1月30日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト出身の元バスケットボール選手。NBAで13シーズンプレイした。

ジェイレン・ローズ
Jalen Rose
2021年のローズ
引退
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
生年月日 (1973-01-30) 1973年1月30日(51歳)
出身地 ミシガン州デトロイト
身長(現役時) 203cm (6 ft 8 in)
体重(現役時) 98kg (216 lb)
キャリア情報
大学 ミシガン大学
NBAドラフト 1994年 / 1巡目 / 全体13位[1]
プロ選手期間 1994–2007
ポジション PG / SF
シュート
経歴
1994-1996デンバー・ナゲッツ
1996-2002インディアナ・ペイサーズ
2002-2004シカゴ・ブルズ
2004-2006トロント・ラプターズ
2006ニューヨーク・ニックス
2006-2007フェニックス・サンズ
受賞歴
Stats ウィキデータを編集 Basketball-Reference.com
Stats ウィキデータを編集 NBA.com 選手情報 NBA.Rakuten

経歴 編集

学生時代 編集

デトロイトのサウスウエスタン高校ではハワード・アイズリーボション・レナードらとプレイし、2年連続で州大会で優勝した。 大学も地元ミシガン大学に進学、全米で一大旋風を巻き起こしたファブ・ファイブの一角として学生時代から全米の注目を浴びる。特にローズはクリス・ウェバーと共に1年の時から「今すぐNBAでプレーできるレベル」と評価が高かった。1年の年から2年連続NCAAトーナメントファイナル進出、ウェバーが抜けた3年目にもエリート8(ベスト8)進出を果たしている。

NBA 編集

3年時(1994年)のNCAAトーナメント敗退直後にファブ・ファイブのもう一人であるジュワン・ハワードと共にアーリー・エントリーを表明、同年のNBAドラフトでデンバー・ナゲッツから全体で13位の指名を受けNBA入りを果たした。1年目の成績は8.2得点、4.8アシスト、年間アシスト数389で球団の新人記録をマークし、オール・ルーキー2NDチームにも選出された。

キャリア3年目の96-97シーズン開幕前にレジー・ウィリアムズ英語版、将来のドラフト1巡目指名権と共にマーク・ジャクソンリッキー・ピアース、ドラフト1巡目指名権との交換でインディアナ・ペイサーズに移籍した。しかし、ゲームメークの拙さから控えでの出場が多かった。翌年からは主にスモールフォワードとして、クリス・マリンのバックアップを務めていたが、ヘッドコーチがラリー・バードに代わると、次第に信頼を得るようになり、99-00シーズンにはスターターに昇格、チームはNBAファイナルまで進出し、MIPを受賞するまでに成長した。ファイナルでは平均23得点(第5戦では32得点を挙げた)を挙げたが2勝4敗でチームはロサンゼルス・レイカーズに敗れ去った。

01-02シーズン途中、低迷するシカゴ・ブルズトラビス・ベストノーマン・リチャードソオン、ドラフト2巡目指名権と共にブラッド・ミラーロン・マーサー、ロン・アーテスト (現:メッタ・ワールド・ピース)、ケビン・オリーとのトレードで移籍。チーム1の点取り屋となったが、03-04シーズン途中、ドニエル・マーシャルロニー・バクスターと共にアントニオ・デイビスジェローム・ウィリアムスクリス・ジェフリーズとの交換でトレードでこれまた低迷中のトロント・ラプターズに移籍した。

ラプターズ在籍期間も短く、05-06シーズン途中にどん底状態に喘ぐニューヨーク・ニックスへ将来のドラフト1巡目指名権、噂されるところでは300万ドルの現金と共にアントニオ・デイヴィスとの交換で移籍した。ニックスのヘッドコーチはペイサーズ時代のヘッドコーチ、ラリー・ブラウンであった。しかしニックスにはガードポジションの選手がひしめき合っており、思うように出場時間を得ることはできなかった。

06-07シーズンの開幕直前である10月30日にニックスから解雇された。その後、複数のチームからオファーを受けていたがフェニックス・サンズと契約した。しかし膝に故障を抱えたローズはサンズの素早いプレイについていくことはできず、2007年のプレーオフでサンズが敗退した後、現役引退を発表しESPNのレギュラーコメンテーターとなった。プレーオフ期間中、TNTのコートサイドレポーターとしても出演している。

プレースタイルその他 編集

90年代に流行した身長2m超の大型ポイント・ガードの一人で、スティーブ・スミスペニー・ハーダウェイと同じくしばしばマジック・ジョンソンに例えられた(しかもローズはサウスポーだったため、異色の存在だった)。が、スミスやペニー同様、結局はコンバートされた。現在は主にスモールフォワードとしてプレーするが、緊急事態にはPGも兼任できる。

ペイサーズに移籍してからはスモール・フォワードに定着しレジー・ミラーに次ぐチーム第2のスコアラーとしてブレイクした。1998年のカンファレンスファイナルシカゴ・ブルズとのシリーズではマイケル・ジョーダンのマークにつき、たくみなディフェンスで第7戦までもつれ込む活躍をしている。[1]それまでは低年俸でよく働く代表的な選手だったが、ここで大型契約を勝ち取った。しかし、2000年のNBAファイナル以降これといって活躍できず、一転して高額サラリーを酷評されることもしばしばであった。

ここ数シーズン、プレーオフ出場もない為、2005年から自身がオフの時は、積極的にTVリポーター役を買って出ている。2006年プレーオフのサンアントニオ・スパーズサクラメント・キングス戦では、レポート中にベンチに座っていたニック・バン・エクセルから頭にタオルを投げつけられ、コメンテーターの笑いを誘っていた。

ナゲッツ時代のチームメートのディケンベ・ムトンボコンゴ民主共和国に建設しようとしている病院のために10万ドルを寄付している。[2]

脚注 編集

  1. ^ Bulls outlast Pacers in grueling Game 7
  2. ^ http://www.givingback.org/rose/rosehome.htm Welcome to The Jalen Rose Foundation

関連項目 編集

外部リンク 編集