ジョニー・ペスキー

アメリカの野球選手、監督 (1919-2012)

ジョン・マイケル・ペスキーJohn Michael Pesky, 1919年9月27日 - 2012年8月13日)は、アメリカ合衆国オレゴン州ポートランド出身の元プロ野球選手内野手)。右投左打。

ジョニー・ペスキー
Johnny Pesky
2006年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オレゴン州ポートランド
生年月日 (1919-09-27) 1919年9月27日
没年月日 (2012-08-13) 2012年8月13日(92歳没)
身長
体重
5' 9" =約175.3 cm
168 lb =約76.2 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 内野手
プロ入り 1940年 ボストン・レッドソックスと契約
初出場 1942年4月14日
最終出場 1954年9月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

MLBにおける新人から3年連続200安打を記録した2人目の選手で、2004年にイチローが史上初の新人から4年連続200安打を達成するまでの記録保持者であった。[1][2]

1940年代から選手・監督・コーチとして長年ボストン・レッドソックスにかかわり、"Mr. Red Sox"(ミスター・レッドソックス)と呼ばれた。

経歴 編集

生い立ち~デビューまで 編集

1919年オレゴン州クロアチア移民の子として生まれた。生まれた時の名前は"John Michael Paveskovich"だったが、1947年に正式に"Pesky"に改名している。父親は野球を全く知らなかったが、ポートランド・ビーバーズの球場が住む家のすぐ近くにあり、子どもの頃から野球には親しんでいたという。熱心に練習に取り組み、1937年に在学するリンカーン高等学校英語版がオレゴン州のタイトルを獲った時には、ペスキーは打率.543を記録していた。

1940年のプロ契約の際、セントルイス・カージナルスが2,500ドルのボーナスを提示したが、ペスキーがサインしたのは500ドルを提示したボストン・レッドソックスだった。ペスキーは少年時代に、パシフィック・コーストリーグに参加していたボビー・ドーアテッド・ウィリアムズといった選手の洗濯係をしていたり、1938年1939年に所属していたチームがトム・ヨーキーが経営していた材木加工会社の持ちものだったりと、それまでもレッドソックスとは何らかの縁があったようである。

現役時代 編集

ペスキーはマイナーリーグで2年を過ごし、1942年にメジャーに昇格する。1年目から147試合に出場し、.331の打率とリーグ最多の205安打を記録する。この年は犠打数(22)もリーグ最多で、同年の最優秀選手投票でジョー・ゴードンテッド・ウィリアムズに次いで3位に入った。この時まだルーキーの表彰制度はなかったが、オーナーのヨーキーはペスキーに5,000ドルのボーナスを加えて彼の活躍を称えた。この額は、ペスキーが両親のためにポートランドに新居を購入するのに充分な額だった。

 
ぺスキーのレッドソックス在籍時の背番号「6」。
ボストン・レッドソックスの永久欠番に2008年指定。
 
ペスキーズ・ポール

1943年ペスキーは第二次世界大戦に出征し、丸3年間野球を離れたが、1946年に復帰すると1年目を凌ぐ活躍を見せ、レッドソックスの28年ぶりのリーグ優勝に貢献、ペスキー自身もこの年のオールスターゲームに選出された。3年目にも207安打を放ち、3度目のリーグ最多安打を記録する。しかし1948年バーン・ステフェンスが加入したことで、ペスキーは三塁手にコンバートされた。同年打率は.281まで落ちたが、翌年から盛り返し、1949年と1950年は100四球以上を記録、打率3割と出塁率4割以上をキープした。しかし1952年のシーズン中、レッドソックスとデトロイト・タイガースの間で5対5のトレードが成立し、移籍する。しかしかつてのような成績を残すことはできず、1954年ワシントン・セネタースへ移籍した。同年オフにセネタースから放出され、引退した。

引退後 編集

ペスキーは引退後1963年に監督としてレッドソックスに復帰。1964年まで2シーズン監督を務めたのち、1965年から3年間ピッツバーグ・パイレーツの一塁ベースコーチを経て、1975年から1984年まで再びレッドソックスでコーチを務めた。1979年までレッドソックスには正式な「打撃コーチ」という役職はなかった(この当時はブルペンコーチのウォルト・リニアックが打撃投手兼任で選手を見ていた)が、1980年から初代の打撃コーチに就任し、84年まで務めた。

引退後、ペスキーの背番号「6」はレッドソックスの永久欠番となった。

2007年9月27日のペスキーの87歳の誕生日には、フェンウェイ・パークのライト側ファウルポールが、正式に『ペスキーズ・ポール』(Pesky's Pole)と命名された。これは現役時代に、フェンウェイ・パークのある試合で、ペスキーがこのポールの近くにホームランを放った時に、かつてチームメイトだった実況のメル・パーネル英語版がペスキーが非力だったことに結びつけて呼び始めたことがきっかけである。

2012年8月13日、死去[3]。92歳没。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1942 BOS 147 686 620 105 205 29 9 2 258 51 12 7 22 - 42 - 2 36 8 .331 .375 .416 .791
1943 兵役のため出場なし
1944
1945
1946 153 703 621 115 208 43 4 2 265 55 9 8 14 - 65 - 3 29 8 .335 .401 .427 .827
1947 155 719 638 106 207 27 8 0 250 39 12 9 9 - 72 - 0 22 10 .324 .393 .392 .785
1948 143 677 565 124 159 26 6 3 206 55 3 5 7 - 99 - 6 32 10 .281 .394 .365 .759
1949 148 713 604 111 185 27 7 2 232 69 8 4 5 - 100 - 4 19 12 .306 .408 .384 .792
1950 127 605 490 112 153 22 6 1 190 49 2 1 6 - 104 - 5 31 13 .312 .437 .388 .825
1951 131 573 480 93 150 20 6 3 191 41 2 2 7 - 84 - 2 15 10 .313 .417 .398 .815
1952 25 84 67 10 10 2 0 0 12 2 0 3 1 - 15 - 1 5 1 .149 .313 .179 .492
DET 69 223 177 26 45 4 0 1 52 9 1 2 5 - 41 - 0 11 2 .254 .394 .294 .688
'52計 94 307 244 36 55 6 0 1 64 11 1 5 6 - 56 - 1 16 3 .225 .372 .262 .634
1953 103 342 308 43 90 22 1 2 120 24 3 7 5 - 27 - 2 10 4 .292 .353 .390 .743
1954 20 20 17 5 3 0 0 1 6 1 0 0 0 0 3 - 0 1 2 .176 .300 .353 .653
WS2 49 171 158 17 40 4 3 0 50 9 1 1 2 1 10 - 0 7 2 .253 .296 .316 .612
'54計  69 191 175 22 43 4 3 1 56 10 1 1 2 1 13 - 0 8 4 .246 .296 .320 .616
MLB:10年 1270 5516 4745 867 1455 226 50 17 1832 404 53 49 83 1 662 - 25 218 82 .307 .394 .386 .780

獲得タイトル・表彰・記録 編集

背番号 編集

  • 6 (1940年 - 同年途中、1981年途中 - 同年終了)
  • 7 (1952年 - 1954年途中)
  • 11 (1954年途中 - 同年終了)
  • 22 (1963年 - 1964年)
  • 4 (1965年 - 1967年)
  • 35 (1975年 - 1980年)

脚注 編集

  1. ^ レッドソックスの“伝説”ジョニー・ペスキー氏死去” (2012年8月15日). 2019年4月9日閲覧。
  2. ^ 復刻:イチロー、4年連続200安打”. 日刊スポーツ (2004年8月28日). 2019年4月8日閲覧。
  3. ^ Red Sox legend Johnny Pesky dies at 92 USA TODAY 2012年8月14日閲覧

関連項目 編集

外部リンク 編集