スタニスワフ・プシビシェフスキ

スタニスワフ・プシビシェフスキStanisław Przybyszewski ポーランド語発音: [staˈɲiswaf pʂɨbɨˈʂɛfskʲi], 1868年5月7日 - 1927年11月23日)は、ポーランドの詩人、小説家、劇作家である。デカダン派自然主義文学に属し、戯曲は象徴主義の流れをくんでいる。ドイツ語ポーランド語で執筆を行った[1]

スタニスワフ・プシビシェフスキ
Stanisław Przybyszewski
誕生 (1868-05-07) 1868年5月7日
プロイセン王国の旗 プロイセン王国 ウォイェボ (Łojewo)(現ポーランドクヤヴィ=ポモージェ県
死没 (1927-11-23) 1927年11月23日(59歳没)
ポーランドの旗 ポーランド クヤヴィ=ポモージェ県ヤロンティ (Jaronty)
墓地 ポーランドの旗 ポーランド クヤヴィ=ポモージェ県グラ (Góra)
職業 詩人、小説家、劇作家
言語 ドイツ語ポーランド語
国籍 プロイセン王国の旗 プロイセン王国ポーランドの旗 ポーランド
代表作 『ホモ・サピエンス』(Homo sapiens)
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生涯 編集

プシビシェフスキは、1868年、各国に分割された状態のポーランドで、クルシュビツァ英語版近くのウォイェボ英語版で生まれた。父は教師のJózef Przybyszewski。プシビシェフスキは、プロイセン領トルンにあるドイツのギムナジウムに通い、1889年卒業した[2]。その後ベルリンに向かい、建築と薬学を学んだ。その時、フリードリヒ・ニーチェサタニズムの思想に影響され、ボヘミアン的都市生活に惑溺した。

ベルリンでは、Martha Foerderという女性と同棲したが、1893年8月18日、ダグニー・ユール英語版と結婚した[1]。Marthaとの間には、同棲中に2人の子、ダグニーと結婚した後に1人の子が生まれている。1893年から1898年までは、ベルリンや、ダグニーの故郷であるノルウェーコンスビンゲル英語版で過ごした。ベルリン滞在中は、「黒仔豚亭」で、芸術家らのサークルと交流した。その中には、ヨハン・アウグスト・ストリンドベリリヒャルト・デーメルエドヴァルド・ムンクなどがいた[1]

1896年、彼は、内妻Marthaを殺害した容疑で逮捕された。しかし、彼女が一酸化炭素中毒で死亡したことが分かり、釈放された。1898年秋、プシビシェフスキとダグニーは、クラクフに移り、革命主義の若い芸術家たちのリーダーとなり、Życie誌の編集者となった。

 
プシビシェフスキとダグニー(1897-98年頃)。

彼は、リヴィウを訪れ、詩人・劇作家Jan Kasprowiczと会った。プシビシェフスキは、その妻Jadwiga Gąsowskaと不倫関係に陥った。

1899年、プシビシェフスキはダグニーを捨て、ワルシャワに家を建ててJadwigaと暮らし始めた。この頃、ポーランドの画家Aniela Pająkównaとも関係を持ち、子供を産ませている。ダグニーはパリに戻り、1901年にトビリシで友人に殺されるという最期を迎えた。

1905年、プシビシェフスキは、Jadwigaとともにトルンに移り、アルコール依存症の治療を始めた。Jadwigaは夫との離婚が成立し、プシビシェフスキと同年4月11日に結婚した。プシビシェフスキは、この後も終生アルコール依存症と闘うことになる。

1906年、2人は、戯曲Ślubyを売った資金でミュンヘンに移った[注釈 1]第1次世界大戦中、短期間チェコボヘミア地方で暮らしたが、1919年、独立を果たしたポーランドに移った。1917年から1918年にかけて、ポズナンZdrój誌に寄稿した。

ポズナンで、彼は劇場の監督の仕事に応募したが、彼が戦争中にドイツの政治機関紙で働いていたことが原因で、認められなかった。郵便局で、ドイツ語の翻訳者の職を得た。1920年には、自由都市ダンツィヒ(現グダニスク)の鉄道会社で同様の職に就いた。1924年までダンツィヒに住み、ポーランド書籍の本屋を営んだ。その後、トルン、ザコパネブィドゴシュチュを転々とした。最後に、ワルシャワで大統領府の仕事を見つけた。

1927年、郷里のクヤヴィ英語版地方に戻り、その11月、ヤロンティ英語版で亡くなった。

著作 編集

最も有名なのは、1896年の小説『ホモ・サピエンス』である。

  • Zur Psychologie des Individuums (1892)
  • De Profundis (1895)
  • Vigilien (1895)
  • Homo Sapiens (1896)
  • Die Synagoge des Satan (1897); Synagoga szatana (1899 Polish edition)
  • Satans Kinder (1897)
  • Das große Glück (1897)
  • Epipsychidion (1900)
  • Androgyne (1900)
  • Totentanz der Liebe (1902)
  • Erdensöhne (1905)
  • Gelübde (1906)
  • Polen und der heilige Krieg (1915)
  • Von Polens Seele. Ein Versuch (1917)
  • Der Schrei (1918)
  • Moi współcześni (1928)

注釈 編集

  1. ^ 評論家の内田魯庵は1912年(明治45年)7月の日記でプシビシェフスキの脚本を読み、44歳の作家であること、"Homo Sapiens"という代表作があることを記している[3]

脚注 編集

  1. ^ a b c Halina Floryńska-Lalewicz (2004-01). “Stanisław Przybyszewski”. Culture.pl (Adam Mickiewicz Institute). http://culture.pl/en/artist/stanislaw-przybyszewski. 
  2. ^ C・ミウォシュ『ポーランド文学史』未知谷、2006年、542p頁。 
  3. ^ 内田魯庵『魯庵随筆 気紛れ日記』双雅房、1936年、P.38頁。