スナイドル銃(スナイドルじゅう、Snider-Enfield スナイダーエンフィールド)とは、イギリスエンフィールド造兵廠 (RSAF) が前装式ライフル銃であるエンフィールド銃を改造した後装式小銃である。日本では蘭語読みで「スナイドル」と呼ばれるが、英語読みでは「スナイダー」で、これは機関部を考案したジェイコブ・スナイダー英語: Jacob Sniderの名に由来する。

スナイドル銃
スナイドル銃
スナイドル銃
種類 歩兵銃
製造国
設計・製造 エンフィールド造兵廠、ダムダム工廠(英領インド
仕様
種別 後装式小銃
口径 .577口径 (14.66 mm)
銃身長 990mm
ライフリング 5条
使用弾薬 .577 Snider(ボクサーパトロン)
装弾数 単発
作動方式 蝶番式閉鎖機構
全長 1,250 mm
重量 3,800 g(未装填)
発射速度 1発/6秒
銃口初速 267 m/s
最大射程 1,150 m[1]
有効射程 900 m
歴史 
設計年 1860年
製造期間 1863 - 1875年
配備期間 1868 - 1901年
配備先 イギリス陸軍英印軍英連邦
関連戦争・紛争 ズールー戦争ボーア戦争戊辰戦争台湾出兵西南戦争江華島事件日清戦争
バリエーション 三ツバンド、二ツバンド、MKI、MKII、MKIII、スナイドル騎兵銃
製造数 250,000-500,000
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今日広く使用されているセンターファイア式実包に使用される、ボクサー型雷管の原型となった口径14.7 mmのボクサーパトロン (.577 Snider) を使用した。

1866年イギリス陸軍制式採用した。日本にも明治維新前後から輸入されるようになり、明治7年(1874年)には旧日本陸軍の制式歩兵小銃として採用された[2]

構造と特色 編集

 
スナイドル銃を装備したグルカ兵1898年

スナイドル銃はエンフィールド銃の銃身後部が切断され、米国人のジェイコブ・スナイダーが考案した右開きの蝶番式銃尾装置が取り付けられており、前装銃と後装銃の中間に位置する過渡的な構造である。この右開きの構造が煙管で用いられる刻みタバコを入れる莨入たばこいれに類似していた事から、日本語ではこれを意味する莨嚢式ろくのうしきとも呼ばれた[3][出典無効]。より正確には銃尾開閉型莨嚢式と呼ばれ、スナイドル銃と同様の構造ながらも前方向に開閉する、後装式改造エンフィールド銃(改造エンピール銃)やアルビニー銃英語: Albini-Braendlin_rifle活罨式かつあんしきとして明確に区別された。

エンフィールド銃をスナイドル銃に改造する費用は、1878年(明治11年)の日本での見積価格で1丁あたり3円30銭だったと記録されている[4][5][出典無効]

メカニズム 編集

スナイドル銃の構造は、改造母体となったエンフィールド銃をそのまま流用しているため、雷管式前装銃のサイドハンマー式撃発機構を使用している。

改造された部分はエンフィールド銃の銃身後方のみであり、ここを切断して蝶番式銃尾装置がネジで固定されており、弾薬の装填と排莢は蝶番で銃身とつながれたブリーチ部を開けて行う。

この時期、各国で様々な方式の前装銃の後装式への改造が行われているが、その中でもスナイダーの考案した蝶番式銃尾装置は最もシンプルな構造で、腔圧によってブリーチが吹き飛ぶ心配の少ないものだった。

一体型薬莢を用いる後装式では、前装式と比べて不発時の対処は格段に容易となった[注釈 1]が、発射後に腔圧で膨張した薬莢が、薬室の内側に張り付くという新しい現象が発生したため、薬莢を強制的に引き出す排莢機構が必要となった。

このため、スナイダーの銃尾装置では、開放状態にした蝶番式ブリーチを後方に引くと、銃身後端に収まっているエキストラクター(抽弾子)が同時に後退し、薬莢後端のリムと呼ばれる縁状の突起部を引っ掛けて、薬莢を引き出す仕組みになっている。薬莢を薬室から引き出すことに成功したら、その後は銃を傾けるか薬莢を指でつまむことで、薬莢を簡単に取り去ることができる。

弾薬 編集

スナイドル銃が使用するボクサーパトロン(.577スナイドル弾.577 Snider)は黒色火薬が詰められた金属製の薬莢基部にボクサー雷管が挿入されており、これを後方から撃針で打撃すると着火する。火薬の燃焼は薬莢の内部だけで完結する仕組みであり、同時代のドライゼ銃シャスポー銃で用いられた紙製薬莢のように撃針で薬莢底部を突き破る必要がない上、発射ガスによる腔圧で膨張した薬莢側筒部が薬室内壁に張り付いて密封されるため、紙製薬莢式の銃器が悩まされた銃身後端(薬室部)からのガス漏れは起こらないようになっていた。

当初のボクサーパトロンは薬莢基部だけが真鍮製で、側筒部は紙で作られていたが、水圧プレスの深絞り成型技術が進歩すると全体が金属で作られるようになった。そしてセンターファイア式金属薬莢の完成形として広く普及し、今日に至っている。

日本陸軍では用いられなかったようであるが、.577スナイドル弾にはライフル弾頭以外に散弾銃の大物獣狩りで用いられるバックショットも用意され、英印軍や英国の刑務所における暴徒鎮圧の為に用いられた[6]。1902年から1908年に掛けてイギリス領インドノースウエストフロンティア州 (1901-1955年)英語版に勤務したフランク・リチャーズは自著『Old Soldier Sahib』において、同地の英印軍が施設警備の際に、制式小銃のリー・エンフィールドとは別にスナイドル銃をバックショット実包と共に備えつけていた事を記している。リチャーズによると、英印軍の宿営地にはしばしば現地部族が銃器を盗む為に忍び込む事があり、歩哨の兵士はこのような動きを見かけるとスナイドル銃のバックショットで盗人を射撃した。バックショットはリー・エンフィールドの.303ブリティッシュ弾と比較すれば威力が低く、流れ弾となった際に自軍の兵士達に被害を及ぼす可能性が低い利点があった。

しかし、スナイドル銃のバックショットは相当以上に強力なもので、英国の詩人ラドヤード・キップリングは『The Grave of the Hundred Head (百人の頭の墓)』という詩でスナイドル銃のバックショットによる射撃を次のように生々しく描写した[7]

スナイドルはジャングルで激しく襲った。
誰かが笑いながら逃げ出した、
彼は最初の獲物、サバルタンの死者を拾った。
彼の額にある青い大きな
そして彼は後ろから頭を吹き飛ばされて死んだ。

.577スナイドル弾は今日の散弾銃でいうところの24ゲージ(24番)英語版とほぼ同じ寸法であり、村田銃などの11×60mmR弾(30ゲージ相当)よりも大口径な為、バックショットを射撃するには適していた。現在、.577スナイドル弾をリローディングする場合は、使用済み薬莢を再利用するか、1930年代ごろまでに製造が打ち切られた新品薬莢を入手して利用する以外に、24ゲージの真鍮薬莢をリサイズして用いる方法が選択されている。

問題点 編集

スナイドル銃は最初期の後装銃だったため、銃身内のライフリングと弾丸の関係性について技術的に未完成なまま製品化されており、改造母体となった前装式のエンフィールド銃よりも命中精度が悪く、下記のような問題点があった。

  • エンフィールド銃では蜜蝋を塗った紙に包まれた状態で銃身内に装填されていた弾丸が、スナイドル銃では直接ライフリングと摩擦する構造に変更されたため、摩擦熱で溶けた鉛がライフリングに付着して蓄積し、銃身の寿命を短くするという問題が起きた。そのため発射後は速やかにブラシを使って銃身内を清掃する必要があった。
  • スナイドル銃は薬莢内に発射薬が密封されて量を簡単に調整できない弾薬を使うため、射程や威力を増すために発射薬量を増やす、あるいは反動を抑えるために薬量を減らすという前装式で長く使われてきた手法が使えず、熟練した射手ほど使い難いと感じた。
  • スナイダーの銃尾装置はエンフィールド銃から簡単に改造する事を優先したデザインだったため、撃発機構は管打式から流用されたサイドハンマー式をそのまま流用していた。サイドハンマー式では射撃の際に、銃身軸線から大きくずれた角度から衝撃が加わるため動揺が起きやすく、命中精度の向上は期待できなかった[注釈 2]
  • スナイダーの銃尾装置でブリーチ部を蝶番状に結合させているピンの強度が低く、排莢時にブリーチ部を後退させる際などに余分な力が加わって変形し易いデザインだったこともあり、ブリーチが開き難くなる問題があった。
  • ブリーチ側方から突き出した撃針後部は、撃鉄に叩かれ続けているうちに潰れて太く変形していく。そのまま使用し続けると撃針孔の中で詰まってしまい、ブリーチ先端から飛び出したまま戻らなくなりはじめ、最終的にブリーチを開けなくなってしまう。このため撃針は定期的に交換する必要があった。

バリエーション 編集

スナイドル銃の改造母体となったエンフィールド銃には、銃身長の違いによって三ツバンド、二ツバンド、騎兵銃の3種類が存在したため、これを改造したスナイドル銃もこれを継承している。

また、製造された状況からの区分も存在し、エンフィールド銃から改造されたMK I、最初からスナイドル銃として製造されたMK II、蝶番式ブリーチにラッチ式ロックが追加され、銃身素材が従来の鋳鋼から圧延炭素鋼となったMK IIIの3種類が存在する[注釈 3]

顧客別のバージョンも存在し、イギリス軍以外の顧客向けに製造されたモデルも存在し、民間市場向けに製造された、富裕な狩猟愛好家向けの高級仕上げタイプや、武器商人が交戦地向けに輸出するための、メーカ刻印を省いて原産国が特定できないようにしたタイプなどが製造された[注釈 4]

スナイドル銃の製造は、イギリス本国以外でも行われ、英領インドのダムダム工廠などで現地生産された[注釈 5]。また、同時期にイギリスの援助を受けていた1870年代のネパール王国でも、スナイドル銃の模造品の生産が行われた[注釈 6]

派生品 編集

また、正規品や模倣品のバリエーション以外に、各国で下記のような派生品が製造されている。

配備状況 編集

 
スナイドル銃の射撃姿勢: 1867年発行の操典より

スナイドル銃はケープ植民地英領インドオーストラリアニュージーランドカナダといったイギリスの植民地や英連邦王国で使われた。

英印軍の現地人部隊では、スナイドル銃が1890年代半ばまで使われたが、その理由は英印軍が反乱を起す事を警戒したイギリス軍が、インド大反乱から1905年までの間、その使用銃をイギリス軍より1世代前の物しか与えなかったため、とされている[注釈 8][注釈 9]

現在 編集

 
カイバル峠で複製されたマルティニ・ヘンリー(左)とスナイドル・エンフィールドの騎兵銃(右)。カイバル峠の複製銃の中には真正品そのものの刻印が荒唐無稽な配列で打刻されていたり、後方に2挺並んだ「スナイドル・エンフィールドのソードオフ・ピストル」のように、実用品ではあり得ない形態の銃が当時物そっくりに密造されている事から、観光客国際治安支援部隊の外国人駐留兵(主にアメリカ兵)の間で土産物として母国に持ち帰られる例が少なくないとされる。

スナイドル-エンフィールド銃は、ネパールで相当数が生産配備されていた事もあり、2010年代現在の骨董銃器市場でも比較的豊富に出回っている古式銃である。2004年にネパール陸軍英語版が、1839年以来保管されていた50000挺以上にものぼる古式銃を軍払下品英語版として一挙に市場放出したこともあり、インターナショナル・ミリタリー・アンティークス英語版などの古式銃オークションなどでも入手しやすい銃となっている[12]

薬莢は前述の通り24ゲージの真鍮製散弾薬莢英語版をリサイズする事が広く行われている。弾頭は鉛で鋳造する為の鋳型が販売されており、黒色火薬ホジドン・パウダー・カンパニー英語版などで製造される黒色火薬代替品英語版等を用いてハンドロードする事で実包を入手できる。カナダの国定史跡であるシタデル・ヒル (フォート・ジョージ)英語版では所蔵する60挺余りのスナイドル銃を用いて、毎日観光客向けの実射を伴うデモンストレーションを行っており、フォート・ヘンリー国定史跡英語版でも歴史再現劇英語版の為に複数の種類のスナイドル銃の運用を行っている[13]

これらの真正の古式銃とは別に、2010年代に於いても地球上で唯一スナイドル銃の「製造」を継続しているのが、パキスタン北西辺境州銃器製作者たちである。カイバル峠を拠点とするダッラ・アダム・ケール英語版在住のアフリディ族英語版達は、マルティニ・ヘンリー銃エンフィールド銃などの英国軍制式小銃と同様に、スナイドル銃を真正品そっくりに、或いは真正品では有り得ないような形態で密造しており、欧米の銃器コレクターの間では峠製の銃英語版と呼ばれている[14][15]

日本におけるスナイドル銃 編集

スナイドル銃は戊辰戦争期にイギリスを通じて薩摩藩に導入され、先進的軍備の整備を目指した長岡藩や、仙台藩額兵隊など幕府諸軍によっても使用された。また、後発で洋式軍制を導入した小藩が初期導入しているケースもあった(上山藩郡上藩など[16])。

大倉組によると幕末に輸入された本銃は、当時の価格で一挺9ドル30セントであった[17]

戊辰戦争当時、日本に入っていたスナイドル銃の数は少なかった[18]が、後装式で連射性に優れていたため、会津戦争での戸ノ口原の戦いでは僅か10挺のスナイドル銃が、旧式のゲベール銃を装備した会津藩白虎隊を打ち破るなどの活躍を見せた[19]

幕府では慶応2年(1866年)12月にナポレオン3世から2個連隊分のシャスポー銃が提供され、追加で10000丁ほど注文している。銃自体は命中精度に優れていたが、フランス語で書かれた教範の翻訳が間に合わないことや、湿度の影響を受けやすい紙製薬莢の問題もあり、あまり活用されなかった。

湿度の影響を受けない金属薬莢であるため、日本の気候でも不発が少ないという利点はあったが、前装銃と全く異なる使用法に兵が戸惑う、といった問題点も明らかになった。

プロイセン製ドライゼ銃
フランス製シャスポー銃

倒幕派諸藩が導入していた前装式エンフィールド銃に簡単な改造を施すだけで後裝銃を製造できたため、諸藩で改造が行われた[注釈 10][注釈 11]。ただし、当時の日本での改造銃の多くはベルギー製のアルビニー銃[20] と同じ、薬室が前方に開閉する活罨式かつあんしきと呼ばれる方式だった。これはスナイドルの側面開放式よりもアルビニーの前方開閉式の方が改造が容易だったためである。よって厳密にはこれらは改造エンピール銃に含まれ、スナイドル銃とは明確に区別される。だが、薬室の方式に違いはあれど、ボクサー型の実包は共用可能であったので、スナイドル銃と混用しての運用には不都合は無い。

新生日本陸軍の誕生とともに、信頼性の高い金属薬莢を使用するスナイドル銃が主力装備とされ、陸軍の歩兵工兵ならびに海軍(後にマルティニ・ヘンリー銃を採用)が装備し、大量に調達されていた記録[21][22][23][24]や、集成館事業での蓄積で近代工業基盤が存在した鹿児島(旧薩摩藩)が弾薬を国産化して、ほぼ独占的に供給していたとの記録[25][26][21][27] が残されている[28][29][30][31][32][33]

スナイドル銃は西南戦争で政府軍の主力装備として用いられ[34]、農民層からの徴兵を主体とする政府軍は銃撃戦で士族中心の薩軍と対峙したため、陸軍省は諸外国の商会を通じて大量の弾薬の調達に奔走し、清国から弾薬を借用する交渉まで進められていた記録が残されている[35][36][37]。鹿児島にあった主装備を大阪に持ち去られ、草牟田や磯の火薬局・造船所から強奪した旧式のエンフィールド銃しか装備できなかった薩軍は、緒戦からスナイドル銃の連射能力の前に多大の出血を強いられ圧倒された[38][39][40]

西南戦争で大量に準備されたスナイドル弾薬は、西郷軍の鎮圧が終了した事で余剰となって大量にストックされていたため、1879年(明治11年)に各地の工廠に退蔵されていたエンフィールド銃の大部分をスナイドル式へ改造する作業が開始されている[4]

1880年(明治13年)、シャスポー銃を金属薬莢用に改造したグラース銃を参考にしたボルトアクション式の村田銃が開発されると、陸海軍ともに装備の更新が開始されるが、最重要部品である銃身を輸入に頼るなど未発達な工業基盤の下で製造された13年式村田銃の調達ペースは遅く、大量の弾薬備蓄を有したスナイドル銃も日清戦争まで二線装備として配備され続けた[41][42]

30年近くに渡って酷使されたスナイドル銃の中には、蝶番構造をつなぐピンが変形して開き難くなっていた物もあり、戦地では兵士には小型の木槌が一緒に配備され叩いて蝶番を開いていたと伝えられている。

日清戦争後、有坂成章が開発した無煙火薬を用いる三十年式歩兵銃が採用されると、完全に旧式火器となったスナイドル銃は引退し、学校教練用に払い下げられたり、村田銃などとともに清国[要検証]や朝鮮などに供与されたが、太平洋戦争末期の本土決戦用に国民義勇隊に再配備され、兵器として再登場した事でも知られている。

先代
日本陸軍の建軍
日本軍制式小銃
1871-1880
次代
村田銃

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 前装銃では銃身を取り外して尾栓を外し、サク杖(カルカ)を使って火薬と弾丸を押し出さなければならず、戦闘中に不発が発生した場合には再度発火を試みるか、後方へ引き返す以外に対処の方法がなかった。
  2. ^ 前装銃の後装式改造には様々な方式が提案されたが、その中にはボルトアクション化を提案したタイプも存在した。
    その一例がドライゼ銃の紙製薬莢を使用する Karl August Luckの試作銃 である。
  3. ^ MK IとMK IIのブリーチには明確なロックが存在せず、逆さまにした時にブリーチが開かないように小さなノッチが引っ掛かっているだけである。 実際にはロックが存在しなくても、ブリーチを開く方向と発射時の圧力が掛かる方向には90°の角度があり、撃発時に撃鉄がブリーチを押さえつけ、発射時の圧力でブリーチも後方に押し付けられるため、ブリーチが勝手に開いてしまう危険性はほとんど無い。
  4. ^ 戊辰戦争期の日本や、南北戦争期の米国に輸出されたエンフィールド銃やスナイドル銃にはこの無刻印タイプが多い。
  5. ^ 日本へ輸出されたスナイドル銃の中にも、インド製の物(デザイン・材質・加工精度は英国製の物と同じ)が存在している。
  6. ^ ネパール内戦後に国連主導で行われた武装解除作業では、僧院などに保存されていた多数のネパール製スナイドル銃が発見され、これが欧米に転売されたため現在でも骨董品市場に多く出回っている。
    参照:ネパール製とイギリス製スナイドル銃の比較
    ネパール製スナイドル銃には、品質・加工精度の劣る製品が存在し、これらはイギリス人が監督した工廠以外で製造されたものと考えられている。
    参照:低品質なネパール製スナイドル銃
  7. ^ スナイドル式にはサイドハンマーの打撃で生じた干渉による命中精度の限界という問題があり、レミントン式は命中精度の問題は最小化されていたものの、ブリーチが貧弱という問題があった。
    Krnka式はスナイドル式と同様に頑丈なブリーチを持っていたが、撃鉄の打撃部は通常の銃器より低い位置に置かれ、レミントン式と同じく撃針は銃身軸線の延長上にある撃針孔に挿入されていた。このため、撃鉄の回転運動で撃針に激しい力が加えられて撃針が前後動しても、銃身軸線の安定には干渉しない優れた構造となっていた。
  8. ^ イギリス陸軍は1874年マルティニ・ヘンリー銃を新規に採用した。
    同銃は日本海軍にも採用されたが、最初から金属薬莢用に設計されており、フランスのグラース銃同様にボトルネック薬莢による小口径化で弾道特性の向上が図られていた。
    スナイドル銃に比べてあらゆる点で優れた銃だったが、用心金の後ろに位置するレバーを上下させるとブリーチが開閉する構造だったため、伏射時に射撃姿勢を維持できないという、歩兵銃としては致命的な欠点があり、同銃が配備されていた時期のイギリス軍が各地で手痛い損害を蒙る一要因となったとされている。
  9. ^ 1888年になってようやく、イギリス陸軍も他の欧州諸国に倣ってボルトアクション式のリー・メトフォード小銃を採用し、同銃に採用された.303ブリティッシュ弾第二次大戦後まで使用される傑作弾薬となり、日本陸軍もこれを改良した九九式普通実包を採用している。
  10. ^ エンフィールド銃の改造について陸軍省に残る最古の記録は明治8年9月のものである。
    陸軍軍政年報(明治八年の項より)
    第五 砲兵事務 (明治八年)九月ヨリ官員ヲ派出シ長門国萩沖原ニ於テ「エンピール」統ヲ「アルミー」銃ニ改造ヲ始ム
  11. ^ 先進技術の摂取に積極的だった日本各地の鉄砲鍛冶の工房においても、前装銃を後装式に改造する信頼性の高い方法としてスナイドル銃の構造が多く参考とされ、様々なスナイドル式改造銃が製造された。
    なかには種子島型の火縄銃をスナイドル式の蝶番構造を真似て後装化した物や、村田銃のボルトを取り付けた種子島まで存在する。

出典 編集

  1. ^ 最大照尺距離 兵器廠保管参考兵器沿革書 佐山二郎 日露戦争の兵器に所収
  2. ^ 精選版 日本国語大辞典 「スナイドル」”. コトバンク. 2024年2月5日閲覧。
  3. ^ 幕末期小銃辞典 - 戊辰戦争兵器辞典 インターネット版[リンク切れ]
  4. ^ a b 陸軍省大日記 明治11年 「大日記参謀監軍内外各局 12月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年12月
    「参第二千八百九十九号 スナイドル銃一萬挺改造之儀ニ付伺 スナイドル銃 一萬挺 此入費概算金三萬三千円 右先般同銃壱萬挺改造御達相成直ニ着手現今火造リ方大砲成功相成候処該銃予備来タ充分ニ無之且工廠之内平閑之場所出来候ニ付当前書之通改造相成度御達案添此段相伺候也 局九百九十六号 第三局長代理 明治十一年十二月十六日 陸軍大佐原田一道 陸軍卿山縣有朋殿 追而該入費者小銃並ニ弾薬製造費十八万円余之内ヨリ御払出相成度此段申添候也 砲兵本廠ヘ達案 スナイドル銃 一萬挺 右在来エンヒール銃ヲ以改造可取計此旨御達
  5. ^ 参考[リンク切れ]1878年(明治11年)当時の物価から換算すると、3円30銭は現在の価値で25,000円程度と考えられる。
  6. ^ .577 inch Snider > .577 inch Buckshot - British Military Small Arms Ammo。
  7. ^ The Grave of the Hundred Head - THE KIPLING SOCIETY
  8. ^ 参照:M1853/67 French Dragoon Tabatière Rifle
  9. ^ 参照1参照2:Danish Snider
  10. ^ 参照1参照2:M1867 Dutch Snider
  11. ^ M1857/67 Russian Krnka
  12. ^ Old Weapons Sale: Have we really lost all of Nepal’s history”. Telegraphnepal.com. 2013年11月11日閲覧。
  13. ^ Holt Bodinson (March 2006), “Britain's big .577 Snider”, Guns Magazine, http://www.thefreelibrary.com/Britain's+big+.577+Snider.-a0141344134 
  14. ^ Snider Carbine 1871 maybe a Khyber Pass Copy - British Militaria Forums
  15. ^ The Brits in Afghanistan (new additions!) - North Carolina Gun Owners
  16. ^ 幕末軍事史研究会編『武器と防具 幕末編』新紀元社、2008年、184頁、190頁
  17. ^ 小林良夫・関野邦夫共著『ピストルと銃の図鑑』池田書店、昭和47年初版、242頁。
  18. ^ 『武器と防具 幕末編』26頁。
  19. ^ 『武器と防具 幕末編』148頁。
  20. ^ 日本ではアルミー銃とも呼ばれている。
  21. ^ a b 陸軍省大日記 明治10年「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 1月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年1月
    「局三四号 砲兵支廠ニ於テスナイトル弾薬製作之義ニ付伺 スナイトル弾之義是迄砲兵支廠ニ於テ製造不致処第二方面内歩工兵員三分ノ二ヲ過キ同銃携帯致居候ニ付当今、鹿児島属廠制作之同弾ヲ以支廠送付致シ然ル後再ヒ各地江配賦致有之候右ハ隔他之場処運搬致候益之矢且緩急之際不都合不少候ニ付左之迄御決定御指令相成度御達案相添此段相伺候也 第三局長代理 十年一月八日陸軍大佐福原実二 陸軍卿山縣有朋殿伺之通 一月十日但入動廠 額金内点報 多少 通御達相成度候也 小砲兵支廠御達案 鹿児島属廠設置之スナイトル弾業器械其廠備付」
    注: 鹿児島属廠設置之スナイトル弾業器械其廠備は、明治10年1月29日に秘密裏にスナイドル銃を含む多くの主装備・弾薬とともに赤龍丸で大阪へ移送された。これに怒った鹿児島私学校勢力の暴発が西南戦争勃発のきっかけとなった。
  22. ^ 蕃地事務局 明治7年8月19日
    「大隈長官ヨリ林大佐外一名ヘスナイドルハトロン能キ品可買取云々往信 八月十九日 スナイドル ノ タマ 六マン ヨキシナ ニテ ネダン ソヲトヲ ナラバ 大至急 カイトル ベシ 至急 御返事可被下候 大隈事務局長官 長崎支局 林大佐殿 横山權助殿」
  23. ^ 蕃地事務局 陸軍卿 山縣有朋 明治7年8月19日
    「山縣陸軍@ヨリ大隈長官ヘ長崎表ニテスナイドル銃買入云@来柬八月十九日 昨十六日福原陸軍大佐ヲ以テ御談為@候長崎表ニ有々候スナイトル弾薬六万発ノ分買入方当省ヨリ熊本鎮@出張平田大尉多田中尉、被相達置候尤エンヒール銃ハ在未多分ニ付買入@致候条旁御承知マラ此@申入候也 蕃地事務局長大隈重信殿」
  24. ^ 海軍省 明治9年公文備考徃出巻14自1至170
    海軍大輔 川村純義 明治9年10月13日
    海軍省 東海鎮守府 軍務局
    「明治9年公文備考往出巻14自1至170 海軍使用之小銃従来区々ニ候処当分スナイトル銃ト相定候条此旨相達候也 明治九年十月十三日 海軍大輔 川村純義 東海鎮守府司令長官海軍少将 伊東祐麿殿 軍務局長海軍大佐 林清康殿 兵学校長海軍大佐 松村淳藏殿 兵器局副長海軍少佐 末川久敬殿 往出第六十五号 原因ハ往入第十二号ニアリ」
  25. ^ 陸軍省大日記「大日記 壬申 7月 府県之部庚」
    陸軍省 明治5年7月
    「候間至急御返却有之度猶及御掛合候也 壬申七月十三日 大蔵省 陸軍省御中 第七百二十三号 スナイトル銃空包 六万四百八拾発 入箱式拾壱個 但壱箱弐千八百八十宛 右陸軍省御用ニ付可差出旨於此県西郷少輔殿ヨリ致承知今般有功鑑ヘ積入差廻候間着船之上御請取相成度荷作其他本艦迄運送入費ハ当処会計掛ヨリ明細書差出候間急便御差送候被下度此段御伺申上候也 壬申六月廿六日 鹿児島県 大砲製造所 陸軍省秘史局御中 第七百二十四号 城地御伺之義ニ付申上書 陸省官員出張ヲ以御取調有之候福島城之義委詳別紙之通当四月中相伺置候」
    注: 鹿児島におけるスナイドル弾薬国産化の成功後、明治六年政変で薩摩閥は大久保系(中央政府)と西郷・桐野系(私学校)に分裂した。
  26. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 砲兵本支廠工兵各方面 1月木 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年1月8日
    「砲第五号 砲兵支廠鹿児島属廠設置之スナイトル弾薬器械其廠ヘ備附其廠ニ於テ製作可致此旨相達候事但入費之儀ハ其廠額金之内ヲ以取計 追而不足之節可申出事 十年一月八日 陸軍卿山県有朋」
  27. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 2月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年2月13日
    「参第二百六十号副 第三坤天式十壱号 至急局百二十三号 スナイトル弾製造器械砲兵支廠江御備附之義伺 一スナイトル弾製造器械一基 但一日六千発製出之分 右砲兵本廠ニ備附之分砲兵支廠江送達同廠ニ於テ右弾製作致候様仕度御達案相添此段相伺候也 十年二月十三日 第三局長代理陸軍大佐福原實 陸軍卿代理 陸軍少輔大山巖殿 伺之通相達候事 二月十三日 砲兵本廠江御達案 一スナイトル弾製造器械一基 右砲兵支廠江備附右弾製作可為致ニ付其廠在来之器械至急同廠江送達可取計此旨相達候事 砲兵支廠江御達案 一スナイトル弾製造器」
  28. ^ 尚、同じく後装式でありながら湿気など環境の変化に弱い紙製薬莢を使用するため、スナイドル銃より信頼性が劣るとされたドライゼ銃が、西南戦争終結までスナイドル銃と併用されていた事を示す記録も残されている。
    陸軍省大日記 明治7年 「大日記 官省使及本省布令 11月布 陸軍第1局」
    陸軍省 明治7年11月
    「第四百二号 今般台湾蕃地御処分事件相済候ニ付在蕃兵隊之儀凱旋被仰出候条為心得此旨相達候事 明治七年十一月十四日 陸軍卿山県有朋 陸軍一般ヘ 第四百三号 近衛鎮台歩兵現今携帯之スナイトル・ツンナール銃ヲ以テ壱名ニ付四発宛射的演習差許候此旨相達候事 但弾薬之儀各所武庫主管ヨリ可受取候事〜東京鎮台
  29. ^ 陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月31日
    「局第三百七十四号 ツンナール銃及弾薬共砲兵支廠江送附之儀ニ付伺 一ツンナール銃 千三百三十挺 但弾薬盒帯革剣差共 一同弾薬 百九十五万七千発 右者砲兵本廠貯蔵之分砲兵支廠江送附為致候様仕度御達案相添此段相伺候也 第三局長代理 明治十年三月三十一日 陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理 陸軍中将西郷従道殿 砲兵本廠御達案 一ツンナール銃 千三百三十挺 一同弾薬 百九十五万七千発 右者其廠貯蔵之分前行之通砲兵支廠江送附可致此旨相達候事 砲兵支廠ヘ御達案 一ツンナール銃 千三百三十挺 一同弾薬 百九十五万七千発」
  30. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 送達の部 5月分 送号 大阪征討陸軍事務所」
    明治10年5月 陸軍省
    「大阪鎮台号 別紙即チ辞第一号 第四百十八号 医歩兵第五大隊出征候申付之付来ル二十四日神戸出帆熊本此段候ニ付該隊候可相度ツンナール弾薬二十五至急神戸港マテ輸送之上引渡可申此鶏相達候事 明治十年五月二十一日 陸軍西郷従道 砲兵〜」
  31. ^ 日本陸軍が保有した後装銃のうち、最も先進的な機構を有していたのはシャスポー銃であり、1874年(明治7年)に原産国のフランスが金属薬莢式のグラース銃への改造に成功した事を受けて、一旦は将来の国産候補として位置付けられていた記録が残されている。
    公文別録・陸軍省衆規渕鑑抜粋・明治元年〜明治八年・第十一巻・明治四年〜明治八年
    明治7年5月15日 太政官 陸軍省
    「東京鎮台歩工兵携帯銃シャスポー製作未整ヲ以テ姑クスナイトル銃ヲ以テ備付ト為ス 達東京鎮台 其台歩工@兵携帯銃シャスポート相定候ニ付テハ春@於造兵司@修理@店候@@@他@至為製作ノ品多分有之ヨリ右銃小ノ半ハ出来ニ至兼@付@延ニ及ヒ不都合ニ付当分「スナイトル」銃ノ以テ備付候条此旨相達候事 但「スナイトル」銃@@属品不足有之一時悉旨@付@難相成漸々取揃相渡一筈@候事衆規@鑑」
  32. ^ この当時の日本陸軍は第二次仏軍軍事顧問団の仏軍人達による指導を受け、フランス陸軍の強い影響下にあり、シャスポー/グラース銃の制式化と国産化は自然な流れだった。
  33. ^ 西南戦争が勃発すると、村田経芳少佐(後にシャスポー/グラース銃を母体に村田銃を開発)がドイツの企業に依頼してシャスポー銃の金属薬莢式への改造を計画していた事も記録されている。
    陸軍省大日記 「大日記 省内各局参謀近衛病院 教師軍馬局 3月水 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年3月7日
    「参第四百五十五号 第三伸天四十八号 至急 局第二百七十号 改造銃代価積り問合之儀二付伺 村田少佐試シ改造之シヤスポー銃独逸国@代価積り問合申度二付アーレンス社より談判為度就而者右十同人より御渡相成度此段相伺候也 十年三月七日 第三局長代理陸軍大佐原田一道 陸軍卿代理陸軍中将西郷従道殿 伺之通 三月七日」
  34. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記砲兵本支廠工兵方面の部6月木陸軍省第1局」
    陸軍少将 井田譲 明治10年6月5日 陸軍省
    砲三百〇四号 一洋銀八万四千弗 ハ ニ付@リ 但スナイドル銃六千挺買上費 右上方ハーブルブラントヘ至急注文可致尤 @務@之義ハ第三局@@可@斗此旨 相達候事 陸軍卿代理 十年六月五日陸軍少将井田譲 砲兵本廠
  35. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 諸省来書 7月 月 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年6月3日
    「月五百〇九号壱第千八十九号 長崎居留英商ギリブル方江三百万発之スナイドル早合二ヶ月内到着之筈於我政府約定相成候趣別紙写之通在上海品川領事ヨリ申越候処右は於貴省御約条相成候品ニ候哉貴省ニおゐて御約定ニ候ハハ二ヶ月内ハ何月幾日より之事ニ候哉為心得承知致度此段及御問合候至急御廻答有之度候也 十年六月三日 大隈大蔵卿 井田陸軍少将殿 別紙 清国軍様所より借入之スナイトル弾薬十万発 返弁方之儀ニ付而ハ本月十四日附を以再応之御上申候ニ付最早委曲御承知之事と被存候然る処今般我政府より長崎居留英商ギリブル方江三百」
  36. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 諸省来書 8月 月 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年8月
    「明治十年八月二十日 内務卿大久保利通 陸軍卿代理 陸軍少将井田譲殿 月六百八十三号 壱第千五百三十三号 英国倫敦ヘ注文候「スナイドル」弾薬三百万発昨二十三日横浜港へ着船致シ候右ハ揮発物ニ付〜」
  37. ^ 陸軍省大日記 明治10年 「大日記 院省来書 10月 月 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年10月
    「度宇野新吉郎外弐名ハ帰隊可為致ニ付宜御取計相成度此段及御懸合候也 明治十年九月廿五日警視局 陸軍少佐児島益謙殿月第八百号在上海品川領事より別紙之通スナイドル彈薬廉価之品有之旨報知有之候ニ付御心得迄ニ及御通知候万一御入用ニ候ハ別紙追書之趣ニ依り御申越有之度此段及御通牒候也 明治十年九月廿八日大蔵大書記官陸軍大佐御中別紙本港居留英商レンカラホート社中ニスナイドル彈丸五百万発所有シ其品位は過日警視局ヨリ長崎居留英商グリーブル社中へ注文シ百六拾六万発本港於而手数致し搬運取計候分は同一之趣然ルニ右五百万発之〜」
  38. ^ 鎮台から九州へ派遣された兵のうち、スナイドル銃以外を支給されていた兵は、弾薬補給統一のためスナイドル銃を新たに支給されてから九州へ派遣されていたが、途中からスナイドル銃のストックがなくなり、そのまま派遣される兵もいた事が記録されている。
    陸軍省大日記 明治10年 「大日記砲兵工兵の部12月木陸軍省第1局」
    陸軍省 明治10年12月
    「砲六百〇二号 大阪鎮台@歩兵第十連隊一大隊第一中隊従前携帯シスナイトル@出征之際ツンナール@@交換其兵@別紙之通@帰之数@返納之義伺出@此旨相達候事 十年十二月二十二日 陸軍卿山県有朋 砲兵支廠 別紙ハ〜」
  39. ^ 陸軍省大日記 明治11年 「大日記鎮台の部 2月木乾 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年2月12日
    「東四十八号 其@歩兵第二連隊第二大隊之内三中隊昨年@大阪鎮台@携帯スナイトル致ツンナール銃与交換出征@戦地ヨリ@ニ本営へ引揚@付@引渡方@五第三千十七号大阪鎮台伺出@之通及指令候条@心得此旨相達候事 明治十一年二月十二日 陸軍卿山県有朋 東京鎮台 別紙@大九十四号」
  40. ^ 陸軍省大日記 明治11年 「大日記6管鎮臺の部 4月末乾 陸軍省第1局」
    陸軍省 明治11年4月
    「五@千六百三十一号 第三伸@法@十九号 甲第三十二号 大二百十九号 元遊撃歩兵第五大隊出征用兵器彈薬返納之義ニ付伺 十年和歌山県臨時召募元遊撃歩兵第五大隊昨十二月解隊返納兵器彈薬@別紙甲乙二表之通有之御召表中持帰ノ分返納@之度此段相伺候也 明治十一年四月十五日 大阪鎮台司令長官 陸軍少将三好重臣代理 陸軍少佐高島信茂 陸軍卿山県有朋 伺之通 四月三十日 元遊撃歩兵第五大隊出征持出ノ兵器弾薬之内凱旋返納員数 長ツンナール銃 同剣 同屓革 同弾薬合 同帯革 同剣差 同胴ノ金物 同又字金 同接脱金 同鍼」
  41. ^ 陸軍省大日記 明治27年9月 戦役日記
    第六師団長黒木為禎 明治27年8月28日
    「第八号ノ二 受領番号 朝密第四〇七号 庁名 第六師団 件名 スナイドル銃弾薬試射ノ件 提出 二十七年九月二日 御指令按 申請之趣難及認可 九月二日 朝密第四〇七号 八一 密発第二七七号 「スナイトル」弾薬試射ノ義ニ付申請 当方面下ノ席支署貯蔵ノ「スナイトル銃」弾薬并ニ携帯弾薬ヲ臨時下ノ関守備隊司令官ヨリ別表ノ年度ニ応シ歩兵各中隊ニ十発乃至四十発宛乃チ歩兵二十中隊分合計八百発乃至三千二百発不発ノ如何ヲ試験致度旨願出候条御認可相成様致度此段及申請候也 追テ御認可相成候上ハ携帯弾薬ノ消費数ハ過般御支給相成候候下ノ関支署貯蔵ノ分ヲ以テ補填可為致候間副申候也 明治二十七年八月二十八日 第六師団長黒木為禎 陸軍大臣伯爵大山巖殿」
  42. ^ 陸軍省大日記 明治28年1月 「27 8年戦役日記 甲」
    野間少佐 明治27年12月30日
    「朝第四六五四号 陸軍大臣代理児玉次官 補充済 野間少佐 村田銃弾薬七万七千五百榴弾三百二榴霰弾千八百八十野砲薬包二千八百八十二山砲薬包三百四十門管四千三百スナイトル銃弾薬一万五千第二軍司令官ヨリ請求ニ依リ宗谷丸ニテ発送ス右補充アリタシ 明治二十七年十二月三十日午後七時四十八分〜」

参照資料 編集

関連項目 編集

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