タンボフロシア語:Тамбо́в;Tambov)は、ロシアタンボフ州の州都。人口は26万1803人(2021年)で減少傾向にある。モスクワから南東へ480km。モクシャー川の支流ツナ川(Цна)とストゥデネツ川の合流点にある。

タンボフ
Тамбов
タンボフの町並み
タンボフの町並み
タンボフの市章
市章
位置
ロシア内のタンボフ州の位置の位置図
ロシア内のタンボフ州の位置
座標 : 北緯52度43分 東経41度25分 / 北緯52.717度 東経41.417度 / 52.717; 41.417
歴史
建設 1636年4月17日(ユリウス暦
行政
ロシアの旗 ロシア
 連邦管区 中央連邦管区
 行政区画 タンボフ州の旗 タンボフ州
 市 タンボフ
地理
面積  
  市域 107 km2
標高 130 m
人口
人口 (2021年現在)
  市域 261,803人
  備考 [1]
その他
等時帯 モスクワ時間 (UTC+3)
郵便番号 392000–392038
市外局番 +7 4752
ナンバープレート 68
公式ウェブサイト : http://cityadm.tambov.ru/

歴史 編集

 
ツナ川を渡る橋

「タンボフ」の名は、モルドヴィン諸語のうちのモクシャ語で「湿地」を意味する言葉に由来する。タンボフは1636年4月17日(ユリウス暦)にロマノフ朝最初のツァーリミハイル・ロマノフの勅令で要塞として設立された。要塞の建設はツァーリの宮廷に仕えるヴォエヴォダで経験の豊かなロマン・ボボルイキン(Roman Boborykin)により指揮され、非常に早く完成した。もとはクリミア・ハン国との国境の砦として設けられたタンボフは、やがてロシア・ツァーリ国の拡大とともに軍事的重要性は薄れ、かわってロシア帝国南部の行政および交易の中心となった。

1779年、タンボフに副王が設けられ、1781年8月16日にはエカチェリーナ2世が町の紋章を認可した。ミツバチの巣の描かれた紋章は、町の住民がよく働くことを表している。1786年3月にはロシアの大詩人で政治家だったガヴリーラ・デルジャーヴィンがタンボフ県の知事に任命され、1788年12月まで務めた。2年余りの短い期間に、デルジャーヴィンは劇場大学、ダンス学校、印刷所、新聞オーケストラ、レンガ工場などを開設するという傑出した業績を挙げた。後にデルジャーヴィンの記念碑がタンボフに建設されている。1830年11月、コレラの流行で大暴動が各地で起きた時期、タンボフでも市民が知事を襲う事件が起きているが正規軍により鎮圧された。

19世紀にはタンボフは多くの学校や図書館、研究所が建てられ、ロシア有数の文化・教育の中心となった。1897年にはタンボフの人口は5万人を超えていた。

ロシア帝国の末期以来、タンボフではしばしば農民反乱が起きた。ロシア内戦後期の1920年から1921年にかけ、タンボフ周辺ではアレクサンドル・アントーノフが率いるボリシェヴィキ赤軍に対する大規模な農民蜂起が起きたが(タンボフ反乱英語版)、毒ガスなどを用いる赤軍により鎮圧された。

1928年、短期間ながらグリゴリー・ジノヴィエフが党中央執行委員を除名されてタンボフに流刑処分となった[2]

第二次世界大戦の時期にはタンボフには第188収容所が作られ、アルザスロレーヌドイツ国防軍武装親衛隊に強制的に編入されたフランス人たち(マルグレ=ヌー)が抑留され4,000人から10,000人が死亡した。 第64収容地区(管理本部はマルシャンスクに在った)には日本のシベリア抑留者の一部も送られ、過酷な生活と環境の中で倒れた者のための日本人墓地も作られている[3]

文化 編集

 
タンボフの大聖堂

今日のタンボフはロシアにおける産業・文化・軍事の一大中心である。

タンボフ美術館はロシアや西欧の多数の画家の作品を所蔵している。ロシア最古のドラマ劇場、2つの大学、2つの軍学校、音楽学校などもタンボフには設けられている。

姉妹都市 編集

脚注 編集

  1. ^ CITY POPULATION”. 2023年5月20日閲覧。
  2. ^ トロツキーら反革命で流刑『東京朝日新聞』昭和3年1月18日(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p362 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  3. ^ 長勢了治『シベリア抑留全史』原書房、2013年8月8日、294頁。ISBN 9784562049318 

外部リンク 編集

座標: 北緯52度43分 東経41度25分 / 北緯52.717度 東経41.417度 / 52.717; 41.417