ネストール・オマール・ピッコリ

アルゼンチンのサッカー選手、監督

ネストール・オマール・ピッコリ(Néstor Omar Píccoli, 1965年1月20日 - )は、アルゼンチンブエノスアイレス出身の元サッカー選手、サッカー指導者。

ピッコリ
名前
本名 ネストール・オマール・ピッコリ
Néstor Omar Píccoli
ラテン文字 PÍCCOLI
基本情報
国籍 アルゼンチンの旗 アルゼンチン
生年月日 (1965-01-20) 1965年1月20日(59歳)
出身地 ブエノスアイレス
選手情報
在籍チーム アビスパ福岡
ポジション FW
監督歴
アビスパ福岡
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

経歴 編集

現役時代 編集

1982年にアルゼンチンのCAリーベル・プレートでプロデビュー、1987年日本サッカーリーグ全日空サッカークラブ(後の横浜フリューゲルス)に入団、一旦アルゼンチンに戻ったが1991年に全日空に復帰し、1992年には中央防犯サッカー部に入団した。1994年にはJFLオールスターサッカーに出場、1ゴールを決めた[1]。クラブが福岡に移転した1995年にはJリーグ昇格に貢献、この年限りで現役引退した。

指導者転身後 編集

日本時代 編集

1996年以降もアビスパ福岡とチーム名が変わったクラブに残り育成担当に就任、1998年からU-18監督となった。さらに1999年はトップチームのアシスタントコーチも兼務、2000年から監督に就任した。

就任後はチームに闘争心を植え付け、激しいサッカーを目指し2000年のセカンドステージではシーズン終盤まで優勝争いに絡むなど周囲の評価を覆す躍進を見せた。しかし翌2001年は成績は伸び悩み、所属選手の不祥事による動揺もあってJ2降格となり解任された。

2000年4月12日ナビスコカップ湘南ベルマーレ戦ではスタメン、ベンチ入りメンバーの大半を入れ替え、実質上サテライトチームの編成で試合に臨み「最強のメンバーをもって試合に臨む」とのリーグ規約に抵触するのではと物議を醸した(後述)。

2003年末には日本フットボールリーグ昇格を目指す静岡FCに監督として招かれ、全国地域リーグ決勝大会で指揮を執ったが、昇格はならず、大会後に辞任した。

アルゼンチン帰国後 編集

2004年には、日本サッカー協会S級コーチライセンス獲得のためにリーベル・プレートでコーチ研修を行った都並敏史を現地で迎え、通訳兼コーディネーターとして支援したとされる。都並は1996年から1年余り福岡に在籍し、ピッコリとは面識があった。

現在はボカ・ジュニアーズでアシスタント・コーチを務めている。

所属クラブ 編集

個人成績 編集

日本国内成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本 リーグ戦 JSL杯 天皇杯 期間通算
1987 全日空 9 JSL2部 22 10 4 2
1988-89 JSL1部 6 3 0 0
1989-90 1 0 0 0
1991-92 17 12 5 -
1992 中央防犯 9 旧J2 15 18 - 2 0 17 18
1993 旧J1 17 9 -
1994 旧JFL 26 29 -
1995 福岡B 6 4 -
通算 日本 JSL1部 19 8 0 0
日本 JSL2部 22 10 4 2
日本 旧JFL 49 42 -
日本 旧J2 15 18 - 2 0 17 18
総通算

ピッコリ事件 編集

2000年4月10日、アビスパの練習場だった雁ノ巣での練習後ピッコリは「12日のナビスコカップ開幕戦湘南ベルマーレは控え組で臨む」と発言。当時の福岡の戦力を考えれば妥当な戦略であり、ピッコリ自身は「技術のある選手がベストメンバーではない。90分質の高いプレーをするのが選手がベストだ。選手を使い続けて疲れさせていいのか?」と主張した。

しかしJリーグ側は発言が新聞に掲載された事で事態を問題視。Jリーグ側はカップ戦の権威が落ちる事に対するスポンサーへの配慮もあってアビスパ側を問い質ししつづけた。この時はいわゆるJリーグバブルが終わり日本経済も冷え込みを続けた時期でスポンサー離れ等危機感が大きくJリーグ側が問題視したと考えられる。

これがきっかけで、Jリーグ規約第42条の「最強のチームによる試合参加(ベストメンバー)を」定めた項目に補足基準

次の試合(J1・J2・ナビスコカップ)における先発メンバー11人は、当該試合直前のリーグ試合5試合のうち、1試合以上先発メンバーとして出場した選手を6人以上含まなければならない(但し、負傷・出場停止等の例外規定もあり)」

という規則改正にまで発展した。

福岡サポーターの一部は当時を振返り「サポーターはピッコリ支持で一つに固まっていた。文句を言う人間はだれも居ない」と語っている。ちなみにこの時の相手湘南とは4月12日に平塚競技場で3-2で福岡が勝利。4月19日はホーム博多の森で0-0の引き分け2回戦に進出した。

なお、同年の同大会でジェフユナイテッド市原も福岡と同じようなケースでその前の公式戦のメンバーから先発9人を交換し試合に臨んだが(4月12日開催)、市原側は先発交換に関して態度を軟化させたこともありJリーグからお咎めは無かった(参考文献『エル・ゴラッソ2007年3月21日発行分。なお、同紙ではこの事件に因み、ナビスコカップにおける先発メンバーの変更率を「ピッコリ度」と呼んで指標としている)。

ピッコリが「控え組で臨む」と言った背景には、問題となった4月の月間試合数(8試合)が過密日程だったことも考慮する点があった。

問題となったときの試合日程 編集

試合日 リーグ・カップ 対戦相手 試合会場 試合間隔
1 2000年 4月1日 J1 1stステージ 第4節 名古屋グランパスエイト 瑞穂公園陸上競技場
中3日
2 4月5日 第5節 ヴェルディ川崎 博多の森球技場
中2日
3 4月8日 第6節 ジュビロ磐田 ジュビロ磐田スタジアム
中3日
4 4月12日 ヤマザキナビスコカップ 1回戦 湘南ベルマーレ 平塚競技場
中2日
5 4月15日 J1 1stステージ 第7節 柏レイソル 博多の森球技場
中3日
6 4月19日 ヤマザキナビスコカップ 1回戦 湘南ベルマーレ 博多の森球技場
中2日
7 4月22日 J1 1stステージ 第8節 ガンバ大阪 万博記念競技場
中6日
8 4月29日 第9節 サンフレッチェ広島 博多の森球技場

問題となったときの試合メンバー 編集

リーグ戦メンバー - カップ戦メンバー
GK 30 小島伸幸 GK 1 塚本秀樹
DF 39 平島崇 DF 39 平島崇
DF 2 河口真一 DF 3 水筑優文
DF 4 小島光顕 DF 28 三好拓児
DF 12 藤崎義孝 DF 15 橋口勝
MF 5 三浦泰年 MF 24 久永辰徳
MF 7 野田知 MF 6 篠田善之
MF 8 石丸清隆 MF 20 鈴木勝大
MF 11 バデア MF 13 牛鼻健
FW 14 山下芳輝 FW 27 松永一慶
FW 9 モントージャ FW 18 江口倫司
GK 1 塚本秀樹 GK 21 田草川貴
MF 6 篠田善之 MF 19 新田大介
MF 13 牛鼻健 MF 34 小森田友明
MF 24 久永辰徳 FW 25 深川大樹
FW 18 江口倫司 FW 29 柿本倫明
  • リーグ戦 2000年4月8日 ジュビロ磐田戦
  • カップ戦 2000年4月12日 湘南ベルマーレ戦

監督成績 編集

年度 所属 クラブ リーグ戦 カップ戦
順位 試合 勝点 勝利 引分 敗戦 ナビスコ杯 天皇杯
2000 J1 福岡 12位 30 37 13 2 15 2回戦 4回戦
2001 J1 福岡 15位 30 27 9 2 19 2回戦 3回戦
2003 東海 静岡FC - - -

脚注 編集

参考文献 編集

外部リンク 編集