ノヴァコード ( Novachord )とは、ハモンドが1937年発表、1939年~1941年に製造した、おそらく世界最初の減算合成ポリフォニック・シンセサイザー製品である。 設計者はジョン・ハナート (John Hanert)ローレンス・ハモンド (Laurens Hammond)、C.N.ウィリアムズ (C.N.Williams) で、1939年~1941年のわずか3年の発売期間を通じ計1069台が製造された。ハモンド製品として例外的に、オルガン音の再現を目的としなかった数少ない製品の一つである。

正面から見たノヴァコード
ノヴァコードの内部

機能と構造 編集

163本の真空管、1000個以上の特注コンデンサ等で構成され、重量は500ポンドに迫り、サイズはスピネットピアノ2台分ほどあった。当時まだ珍しかった周波数分周オシレータの採用により、全72鍵の同時発音が可能だった。これは、最上位オクターブ相当の12音階を12個のマスター・オシレータで生成し、真空管による単安定回路で分周して下のオクターブの音階を得る方式だった。同様な方式は、30年以上後のモーグアープポリフォニック・シンセサイザーでも採用された。

ノヴァコードは、初期のADSRエンヴェロープ制御機能を搭載しており、アタック/ディケイ/サスティーンは回転スイッチによる切り替え式、リリースはペダル・コントローラによる演奏時のリアルタイム表現が可能だった。またレゾナンス付きローパス・フィルターやレゾネータ (いずれもパッシブ回路)のほか、オシレータ2個一組に個別にかかる6個の電気機械式ヴィブラート(電磁ブザーと同様な自励発振器を使用)により、本格的な音色の変更が可能だった。以上の信号処理機能により、ノヴァコードは弦楽器や声のような持続音から、ハープシコードやピアノのような鋭いアタックの減衰音まで、非常に広範な音色を表現できた。

製品の収束 編集

ノヴァコードはその技術史上の重要性にもかかわらず、楽器自体の不安定性や、第二次大戦の勃発が原因で、商業的には大きな成功が得られなかった。 信頼性の問題は主に、何百ものカスタム部品の動作パラメータに過度の依存関係を持たせた設計が原因で発生した。これら部品の動作パラメータは、驚くほど狭い許容範囲内に収める必要があった。 ハモンドは極めて早期にこの問題の存在に気付き、安定性を改善するためのスペシャル・アップグレードを提案した — その中身は、高湿度時の悪影響緩和を目的に筺体内部にボルト付けする「低出力ヒータ」以外の何物でもなかった。

さらに驚くべき事には、この楽器は真空管を極めて大量に使っているにもかかわらず、真空管に起因する故障はほとんど知られていない。これは、おそらく真空管ヒータの低電圧駆動(6.3V品を5Vで駆動)による、真空管の長寿命化の寄与が大きいと推測される。

使用例 編集

ノヴァコードの演奏は、同時代の他の電子楽器 — たとえばテルミンオンド・マルトノトラウトニウム — と同様に、ホラー映画やSF映画のサウンドトラックでしばしば聞くことができる。たとえば ユニバーサル・スタジオの多くのジャンルの映画や、ハマー・フィルムのホラー映画『妖女ゴーゴン』 (1964, The Gorgon) のために 作曲家ジェイムズ・バーナード が書き下ろした神妙な音楽を挙げる事ができる。

映画史上屈指の名画『風と共に去りぬ』(1939, Gone With the Wind)では、場面転換時の効果音としてノヴァコードの電子音が使われている。[1]

また音楽分野でも、当時のレコードで多くの活用例を確認できる。大戦前後のヒット曲“We'll Meet Again”も含め、ポピュラー歌手 ヴェラ・リン (Vera Lynn) の多くの歌の伴奏は、アーサー・ヤングによるノヴァコード演奏である。

現存するノヴァコード 編集

現在残っているノヴァコードの個体数はおそらく200台未満で、そのうち稼働可能な個体はさらに少ないものと推定される。70年の歳月を生き残ったノヴァコードの大半は、北アメリカ大陸に存在する。

ノヴァコードを再現したソフト 編集

Soniccoutureから、ノヴァコードの実機の音を収録したKontakt用ライブラリ「NOVACHORD」が発売されている[1]。このライブラリでは、ノヴァコードの音色と操作性が再現されていると共に、新たなオリジナルの音色パッチが追加されている。その他、Hollow SunからもノヴァコードのKontakt用ライブラリが発売されている[2]

脚注 編集

  1. ^ Hammond Novachord Sightings”. discretesynthesizers.com. 2009年8月30日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集