ビッド・マクフィー

アメリカ合衆国の野球選手 (1859-1943)

ビッド・マクフィー(John Alexander "Bid" McPhee, 1859年11月1日 - 1943年1月3日)は、アメリカ合衆国ニューヨーク州メセナ出身のプロ野球選手二塁手)。右投げ右打ち。

ビッド・マクフィー
Bid McPhee
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク州セメナ
生年月日 1859年11月1日
没年月日 (1943-01-03) 1943年1月3日(83歳没)
身長
体重
5' 8" =約172.7 cm
152 lb =約68.9 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1882年
初出場 1882年5月2日
最終出場 1899年10月15日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 2000年
選出方法 ベテランズ委員会選出

"Bid (Biddy)"はニックネーム(「ひよっ子」の意)。高い守備能力を誇った二塁手でありながら、1895年までグラブをつけず、素手でプレーしていた。

経歴 編集

1882年、22歳の時に当時アメリカン・アソシエーションに加盟したシンシナティ・レッドストッキングスと契約。同年レッズはリーグを制覇し、彼は正二塁手の座を射止める。契約当初から守備の上手さを買われており、既にグラブを使ってプレーしていた選手もいる中で、リーグ最高の守備率を何度もマークし(当時まだ素手で守っていたマクフィーの守備率は.920から.940もあった)、また併殺の数はデビューから1890年まで9年連続でリーグ最多だった。マクフィーがはじめてグラブをはめてプレーしたのは引退の3年前、1896年のことである。

打撃面ではレッズの先頭打者をつとめ、100得点以上を挙げたシーズンが10度に及ぶ。また1887年には95盗塁をマークしたのを最高に、1880年代後半は毎年50盗塁以上をきめていた。1899年に選手を引退。通算2250安打は、引退当時二塁手としての最多安打記録でもあった。

現役引退後、1901年と1902年にはレッズの監督をつとめ、その後スカウトなどでずっとレッズと関わっていた。球界を退いた後カリフォルニア州に移り、1943年にサンディエゴで死去。ベテランズ委員会がアメリカ野球殿堂入り選手に選出したのは、引退から100年以上過ぎた2000年のことである。また2年後の2002年には、レッズの球団殿堂入り選手にもなっている。

人物 編集

野球のグラブはナショナルリーグ創設(1876年)の頃には普及し始めていたが、当時はまだ、グラブをはめるのは男らしくない、という風潮があった。マクフィーは1895年までその使用を否み、自分の手を塩水につけて手の皮を硬くしていたという。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1882 CIN 78 322 311 43 71 8 7 1 96 31 -- -- -- -- 11 -- -- -- -- .228 .255 .309 .563
1883 96 385 367 61 90 10 10 2 126 42 -- -- -- -- 18 -- -- -- -- .245 .281 .343 .624
1884 112 483 450 107 125 8 7 5 162 64 -- -- -- -- 27 -- 6 -- -- .278 .327 .360 .687
1885 110 457 431 78 114 12 4 0 134 46 -- -- -- -- 19 -- 7 -- -- .265 .306 .311 .617
1886 140 624 560 139 150 23 12 8 221 70 40 -- -- -- 59 -- 5 -- -- .268 .343 .395 .738
1887 129 600 540 137 156 20 19 2 220 87 95 -- -- -- 55 -- 5 30 -- .289 .360 .407 .767
1888 111 506 458 88 110 12 10 4 154 51 54 -- -- -- 43 -- 5 32 -- .240 .312 .336 .648
1889 135 604 540 109 145 25 7 5 199 57 63 -- -- -- 60 -- 4 29 -- .269 .346 .369 .715
1890 132 616 528 125 135 16 22 3 204 39 55 -- -- -- 82 -- 6 26 -- .256 .362 .386 .748
1891 138 638 562 107 144 14 16 6 208 38 33 -- -- -- 74 -- 2 35 -- .256 .345 .370 .715
1892 144 664 573 111 157 19 12 4 212 60 44 -- -- -- 84 -- 7 48 -- .274 .373 .370 .743
1893 127 589 491 101 138 17 11 3 186 68 25 -- -- -- 94 -- 4 20 -- .281 .401 .379 .779
1894 128 585 483 113 151 21 10 5 207 93 33 -- 6 -- 91 -- 5 23 -- .313 .427 .429 .855
1895 115 520 432 107 129 24 12 1 180 75 30 -- 7 -- 73 -- 8 30 -- .299 .409 .417 .826
1896 117 502 433 81 132 18 7 1 167 87 48 -- 8 -- 51 -- 10 18 -- .305 .391 .386 .776
1897 81 337 282 45 85 13 7 1 115 39 9 -- 16 -- 35 -- 4 19 -- .301 .386 .408 .794
1898 133 565 486 72 121 26 9 1 168 60 21 -- 11 -- 66 -- 2 34 -- .249 .341 .346 .687
1899 112 432 377 60 105 17 7 1 139 65 18 -- 8 -- 40 -- 7 33 -- .279 .358 .369 .727
通算:18年 2138 9429 8304 1684 2258 303 189 53 3098 1072 568 -- 56 -- 982 -- 87 377 -- .272 .355 .373 .728
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル 編集

記録  編集

  • 二塁手最高守備率:8回(1882年、1883年、1885年、1886年、1888年、1889年、1891年、1896年)
  • 併殺数リーグ最多:11回(1882年 - 1890年、1892年、1893年)
  • サイクル安打:1回(1887年8月26日)
  • 7年連続100得点以上(1889年 - 1896年)
  • 三重殺に通算9度かかわっており、これは二塁手としてメジャーリーグ最多である。

監督としての戦績 編集

関連項目 編集

外部リンク 編集