ウィリアム・フランシス・マクナルティWilliam Francis McNulty , 1946年8月29日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州サクラメント出身の元プロ野球選手内野手外野手)。

ビル・マクナルティ
Bill McNulty
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 カリフォルニア州サクラメント
生年月日 (1946-08-29) 1946年8月29日(77歳)
身長
体重
190 cm
92 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 内野手外野手
プロ入り 1965年
初出場 MLB / 1969年7月9日
NPB / 1975年6月3日
最終出場 MLB / 1972年10月4日
NPB / 1975年9月28日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

来歴・人物 編集

アメリカンリバー短期大学卒業後、1965年カンザスシティ・アスレチックスと契約。1969年7月9日ホワイトソックス戦(WSパーク)に7番・左翼手で先発出場してメジャーデビューを果たすが、3打数無安打2三振に終わった。メジャーでは同年と1972年に計9試合に出場したのみで定着はならず、9つの球団を転々とするマイナーリーグ生活であった。1Aから3Aまで各リーグを経験し、1974年に55本塁打で3Aの本塁打王になるが、実は当時所属していたチームの本拠地球場は左翼が84m程度しかない変形球場で、日本でならレフトフライの打球も本塁打になっていたためであった[1]1975年シーズン途中の5月29日、成績不振のため解雇されたジミー・ロザリオに代わってラファエル・バチスタと共にロッテオリオンズへ入団[1]ジョージ・アルトマンの代役として期待され、6月3日南海戦(大阪)に4番・左翼手で初出場。同試合ではバチスタが江本孟紀から初打席本塁打を放っているが、マクナルティも三遊間に強い当たりのゴロを放った[1]遊撃手鶴崎茂樹が捕球したが、来日初安打となる内野安打になっている[1]。南海の野村克也選手兼任監督はマスク越しに新助っ人の2人を観察しており、「バチスタが打ったのはフォークが落ちなかった力のないボール。ファームの選手でもホームランや。マクナルティ?間違ったらもっていかれるな。パワーはありそうや。けど、穴もけっこうあるで」と分析していた[1]金田正一監督は「後期が楽しみや。そろって20本塁打や」と大きな期待を寄せたが、野村が予言した通り、新助っ人は穴が多かった[1]6月10日日本ハム戦(宮城)で三浦政基から初本塁打を放ち、本塁打こそ13本とマイナーの本塁打王の片鱗を見せたが、カーブに対応できなかった[1]。64試合で52三振、打率.190[1]という粗い打撃がネックとなり、同年限りで退団して帰国。

詳細情報 編集

年度別打撃成績 編集

















































O
P
S
1969 OAK 5 17 17 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 10 0 .000 .000 .000 .000
1972 4 12 10 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 0 1 0 .100 .250 .100 .350
1975 ロッテ 64 216 195 24 37 2 0 13 78 27 1 2 2 1 17 0 1 52 2 .190 .257 .400 .657
MLB:2年 9 29 27 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 0 11 0 .037 .103 .037 .140
NPB:1年 64 216 195 24 37 2 0 13 78 27 1 2 2 1 17 0 1 52 2 .190 .257 .400 .657

背番号 編集

  • 37 (1969年)
  • 18 (1972年)
  • 7 (1975年)

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h 【【6月3日】1975年(昭50) ロッテ来日6日目の新助っ人が3、4番 上々デビューも…”. スポーツニッポン (2010年6月3日). 2011年12月10日閲覧。

関連項目 編集

外部リンク 編集