ピーター・キング (初代キング男爵)

初代キング男爵ピーター・キング英語: Peter King, 1st Baron King PC FRS1669年頃 - 1734年7月22日)は、イギリスの法律家、政治家。1725年から1733年まで大法官を務めた[1]

ピーター・キング
Peter King
ダニエル・デ・コニンク英語版による肖像画、1720年。
生年月日 1669年
出生地 イングランドの旗 イングランド デヴォン州エクセター
没年月日 1734年7月22日
死没地 グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国 サリー州オッカム
出身校 ライデン大学
所属政党 ホイッグ党
称号
配偶者 アン・セイズ
親族

在任期間 1725年7月1日 - 1733年11月29日

在任期間 1714年 - 1725年

イングランドの旗 庶民院議員
選挙区 ベア・アルストン選挙区英語版
在任期間 1701年 - 1707年

グレートブリテン王国の旗 庶民院議員
選挙区 ベア・アルストン選挙区
在任期間 1707年 - 1715年
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生涯 編集

ジェローム・キングとアン・ロック(ジョン・ロックの叔父ピーター・ロックの娘)の間の息子として、1669年にエクセターで生まれ[2]エクセター・グラマー・スクール英語版で教育を受けた。青年期のときは初期教会史に興味を持ち、1691年に匿名で『An Enquiry into the Constitution, Discipline, Unity and Worship of the Primitive Church that flourished within the first Three Hundred Years after Christ』という初期教会史に関する著作を出版した[3][4]。母方の親族で哲学者ジョン・ロックはこの著作に興味を持ち、キングの父に彼をライデン大学に送るよう提案した。キングはライデン大学で3年間学んだ後、1694年10月23日にミドル・テンプルに入り、1698年6月8日に弁護士資格免許を得た[2][4]

1701年1月10日にベア・アルストン選挙区英語版庶民院議員に当選、以降1715年まで議席を維持した[4]。1702年2月に処女演説をした後、ロックからの祝いの手紙が届いたが、ロックによると処女演説の反響は良かったという[4]。1704年にもエイルズベリー(Aylesbury)の選挙について演説した[4]

1705年にグラストンベリー市裁判所判事に任命され、1708年7月27日にロンドン市裁判所判事に任命された[4]。1708年9月12日、アウデナールデの戦いでの勝利についてアン女王に賛辞を述べた後、ウィンザー城ナイトに叙された[4]。この時点でホイッグ党の重鎮の1人とされており、1710年にはヘンリー・サシェヴェレル英語版を追訴した人物の1人となった[4]。1714年9月20日にジョージ1世がロンドンに到着したときは市裁判所判事として彼を歓迎した[4]。1714年10月26日に高等法廷弁護士(serjeant-at-law)になり、11月22日に民事訴訟裁判所大法官英語版就任した[4]1715年ジャコバイト蜂起に反乱に参加した平民を追訴したが、寛容な方針をとったという[4]。1725年にキング男爵に叙され、貴族院議長に就任した後、同年6月に大法官になった。1733年、脳卒中麻痺を起こしたため辞任を余儀なくされた[2]。そのとき、4,000ポンドの年金か1回きりで20,000ポンドをもらうという選択肢を与えられ、後者を選択した[4]

1728年11月14日、王立協会フェローに選出された[5]

1734年7月22日、サリーオッカムで死去した[2]

評価 編集

 
1725年のキング男爵

英国人名事典は「キング以上の名声をもって大法官に就任した者は少なく、キング以下の名声をもって大法官を離任した者も少ない」と酷評し、キングがたびたび判決を引き延ばしたとも記述した[4]。一方でイングランドの不動産に関する所在地法英語版の原則を定め、夫が妻の個人的な財産に(衡平法に基づく裁判による)法的権利を有する場合、その財産の一部を妻に残さなければ衡平法に基づく権利を行使できないとした[4]。また、1730年裁判所手続き法英語版を提出して、裁判所で使用する言語をラテン語から英語に改めた[2]

家族 編集

1704年9月、アン・セイズと結婚した[4]。2人は4男2女をもうけた[4]

  • ジョン(1706年 – 1740年) - 第2代キング男爵、子供なし
  • ピーター(1709年 – 1754年) - 第3代キング男爵、生涯未婚
  • ウィリアム(1711年 – 1767年) - 第4代キング男爵、生涯未婚
  • トマス(1712年 – 1779年) - 第5代キング男爵、子供あり

脚注 編集

  1. ^ KING, Peter (c.1669-1734), of the Middle Temple, London and Ockham, Surr.”. History of Parliament Online. 2016年7月13日閲覧。
  2. ^ a b c d e Chisholm, Hugh, ed. (1911). "King of Ockham, Peter King, 1st Baron" . Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 15 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 805.
  3. ^ An Enquiry into the Constitution, Discipline, Unity and Worship of the Primitive Church that flourished within the first Three Hundred Years after Christ.” (EPUB, Full Text, Kindle, PDF and others). 2018年9月16日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Rigg, James McMullen (1892). "King, Peter (1669-1734)" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 31. London: Smith, Elder & Co. pp. 144–147.
  5. ^ "King; Peter (1669 - 1734); 1st Baron King of Ockham". Record (英語). The Royal Society. 2019年4月13日閲覧

外部リンク 編集

イングランド議会 (en
先代
ジョン・ホールズ
ジェームズ・モンタギュー英語版
庶民院議員(ベア・アルストン選挙区英語版選出)
1701年 - 1707年
同職:サー・ローランド・グウィン英語版 1701年
ウィリアム・クーパー英語版 1701年 - 1705年
スペンサー・クーパー英語版 1705年 - 1707年
次代
グレートブリテン議会
グレートブリテン議会英語版
先代
イングランド議会
庶民院議員(ベア・アルストン選挙区英語版選出)
1707年 - 1715年
同職:スペンサー・クーパー英語版 1707年 - 1710年
ローレンス・カーター英語版 1710年 - 1715年
次代
ローレンス・カーター英語版
ホレーショ・ウォルポール
司法職
先代
トレヴァー男爵
民事訴訟裁判所大法官英語版
1714年 - 1725年
次代
サー・ロバート・エア英語版
公職
委員会制
最後の在位者
マクルズフィールド伯爵
大法官
1725年 - 1733年
次代
タルボット男爵
グレートブリテンの爵位
爵位創設 キング男爵
1725年 - 1734年
次代
ジョン・キング