フィリッピーネ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート

フィリッピーネ・アウグステ・アマーリエ・フォン・ブランデンブルク=シュヴェートPhilippine Auguste Amalie von Brandenburg-Schwedt, 1745年10月10日 - 1800年5月1日)は、ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の2番目の妃。

フィリッピーネ
Philippine
ホーエンツォレルン家
1775年

出生 (1745-10-10) 1745年10月10日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯領、シュヴェート
死去 (1800-05-01) 1800年5月1日(54歳没)
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ベルリン
埋葬 プロイセン王国の旗 プロイセン王国ベルリン大聖堂
配偶者 フリードリヒ2世
  ゲオルク・エルンスト・レーフィン・フォン・ヴィンツィンゲローデ
子女 ゲオルク・フィリップゾーン
家名 ホーエンツォレルン家
父親 フリードリヒ・ヴィルヘルム・フォン・ブランデンブルク=シュヴェート
母親 ゾフィー・ドロテア・フォン・プロイセン
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生涯 編集

ブランデンブルク=シュヴェート辺境伯フリードリヒ・ヴィルヘルムと、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘ゾフィー・ドロテアの間の末娘として生まれた。

フィリッピーネはシュヴェート英語版の宮廷で自由気ままに育った。1765年に死んだ母の遺言で、フィリッピーネは母方の伯父フリードリヒ2世大王を後見人とし、ベルリンに移った。フィリッピーネとフリードリヒ2世は強い肉親の情で固く結ばれ、2人が離れ離れになるのを嫌がったためにフィリッピーネの縁談は何度も破談になった。結局、フリードリヒ2世は1772年にフィリッピーネを泣く泣く手放し、プロイセンからの莫大な持参金を目当てにするヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ2世の元へフィリッピーネを嫁に出した。フィリッピーネは結婚式当日、医者に妊娠が命に関わる体質だと言われていると主張し、25歳年上の夫と一度も同衾しなかった。

フィリッピーネはカッセルの宮廷で夫から大幅に独立した生活を送り、自分を女主人とする「若い人々の宮廷」を形成した。彼女の宮廷には哲学者のアドルフ・クニッゲ、探検家のゲオルク・フォルスター、そして後にヴュルテンベルクの宰相となる政治家ゲオルク・エルンスト・レーフィン・フォン・ヴィンツィンゲローデドイツ語版などがいた。フィリッピーネはヴィンツィンゲローデと愛人関係にあり、1777年には彼の子供を密かに出産、生れた息子はゲオルク・フィリップゾーンと名付けられたという。フィリッピーネはドイツ諸国やフランスを頻繁に旅し、訪れた地域の人々から「ヨーロッパで最も美しいお妃」と賛美された。

夫フリードリヒ2世の先妻のメアリーは、1754年に別居を決めると3人の息子たちを連れてカッセルを去り、その後に亡くなっていた。1782年、フィリッピーネは夫と先妻の息子たちの間を取り持ち、両者を和解させた。

夫の死後、フィリッピーネは1786年に寡婦財産としてハーナウを手に入れた。フィリッピーネと継息子のヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム9世はフィリッピーネが死ぬまで激しい対立関係にあり、2人の争いはヘッセン=カッセルのみならずプロイセン、ロシア帝国まで巻き込む国際問題に発展した。フィリッピーネは愛人のヴィンツィンゲローデを侍従長に任じ、1794年には帝国伯爵に叙されるよう計らい、同年に彼との身分違いの再婚に踏み切った。

1792年、フィリッピーネはフランス革命軍の侵略を避けてマインツに滞在していたが、継息子ヴィルヘルム9世の反対を押し切ってベルリンに帰り、従兄のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の寛大な計らいでベーレン通り66番地の屋敷を住まいとして与えられた。実家のブランデンブルク=シュヴェート家は1788年に男系が絶え、彼女や姉妹、従姉妹たちの財産は各々の完全私有財産になっていたため、ベルリンの居館を含む彼女の財産は夫のヴィンツィンゲローデが相続した。

フィリッピーネは1800年、脳梗塞のために亡くなり、プロイセン王家の一族が眠るベルリン大聖堂に葬られた。

参考文献 編集

  • Wolf v. Both/Hans Vogel: Landgraf Friedrich II. von Hessen-Kassel, Ein Fürst der Zopfzeit. München 1973.
  • Heinrich Jobst Graf v. Wintzingerode: Philippine von Preußen, Landgräfin von Hessen-Kassel – Eine Biographie. Magisterarbeit an der Humboldt-Universität zu Berlin 2005 (unveröffentlicht).
  • Heinrich Jobst Graf v. Wintzingerode: Recht tun behält sein Preis allzeit, Die Geschichte der Burg Bodenstein und der Herren von Wintzingerode. Großbodungen 2004.
  • Landesdenkmalamt Berlin/Dom zu Berlin (Hrsg.): Alle Erinnerung ist Gegenwart, Die Hohenzollerngruft und ihre Sarkophage. Berlin 2005.

外部リンク 編集

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