フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ

マリー・シャルル・フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ(Marie Charles Ferdinand Walsin Esterhazy、1847年12月16日 - 1923年5月21日)は、フランス軍人1894年に起きたドレフュス事件の真犯人の一人。ハンガリーの名門貴族のエステルハージ家の出身。

英国逃亡後の1899年、自分はドイツスパイであり、ドレフュスの筆跡を真似て書類を捏造したと告白した。

生涯 編集

祖父はエステルアジ・ド・ガランタ家の非嫡出子(私生児)だったが、オーストリア=ハンガリー人の裕福な医師ヴァルザン家の養子となり、ヴァルザン・エステルアジを自称していた。裁判所は、エステルアジ・ド・ガランタ家の伯爵の称号の使用のみを禁止した。

フェルディナン自身はパリで生まれ、オーストリアで育った。リセ・ボナパルト(現在のリセ・コンドルセ)を経て、サンシール陸軍士官学校に落第。ウィーナー・ノイシュタットテレジア陸軍士官学校(Theresianische Militärakademie)で学び、1866年普墺戦争での、イタリア方面軍の騎兵隊将校としての軍歴を振り出しに、フランス義勇兵との混成のズアーブ兵団に加わり、さらに1870年の普仏戦争では、フランス外国人部隊に参加していた。1872年にはグレニエ軍団の将校としてパリに現れ、知的な造詣の深さと、多方面にわたる縁故によって知られるようになった。1877年に敵軍情報を扱う第二局に配属。上官のユベール=ジョセフ・アンリの知遇を得た。

1886年にアンヌ・ド・ネタンクールと結婚。

スパイ活動 編集

1894年から、借金の返済のために、ドイツのスパイ活動を開始した。

1896年に、ジョルジュ・ピカールフランス語版英語版大佐は、ドレフュス事件の証拠となったメモの筆者がエステルアジであることを発見し、1899年7月18日のパリの新聞『ル・マタンフランス語版英語版』紙で発表した。軍はこの事件のもみ消しを図るが、さらに数か月後に新聞『フィガロ』紙にエステルアジの手紙の抄録が掲載されるに至った。

1897年11月には、ドレフュスの兄弟マテューは、これらのメモの筆者としてエステルアジを尋問するように嘆願書を提出する。一方でエステルアジも、自身の潔白のための尋問を要求した。1898年1月10日に、彼は軍事裁判所に出頭するが、無罪となる。

ここで有名なゾラによる大統領フェリックス・フォール宛ての『我弾劾す』("J'accuse") に始まる公開質問状が新聞『オーロールフランス語版英語版』紙に掲載され、その中で軍部を中心とする不正と虚偽の数々を徹底的に糾弾した。

1898年8月12日に、彼のロンドンへの逃亡が発表された。彼のスパイ活動は、その後あらゆる角度から調査され、一時は二重スパイ説なども出されたが、実際には単純に金のためのスパイであったと、現在は結論付けられている。

1899年8月、レンヌでドレフュスへの情状酌量を判断する尋問が実施されたが、エステルアジは召喚されなかった。

1903年から1906年にかけて、彼は反ドレフュス的な反ユダヤ系の新聞『ラ・リーブル・パロールフランス語版英語版』紙のイギリス特派員だった。1908年にはイギリス東部のハーペンデンに、ジャン・ド・ヴォワルモン伯爵の変名で転居し、1911年から1917年まで『レクレール』紙 (L'Éclair) に記事を書いている。その後も特に断罪されることなく、1923年に死去した。